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小説『電車読書』

        *

ぼくは電車の中で文庫本の小説を読んでいた。
国家試験の受験資格を得るため、隣の県の地方都市にある大学へスクーリングを受けに行った帰りの電車の中だ。三十九歳のぼくにとって今後の人生を考えるとこの国家試験はすごく重要な試験だったから、電車の中でも勉強をして試験で高い得点を得られるようがんばることが大事かもしれなかった。でも、ぼくは小説が好きだったし、「勉強だけ」というのが嫌いだった。大学受験のときにそれをやって大した効果はないことを知った。適度に遊んでいるほうが物事はうまくいくし、失敗しても他に楽しみがあれば破滅するようなことはないのだ。
で、ぼくは電車の中で文庫本の小説を読んでいた。周囲を見渡すと、スマートフォンをいじっている人が多かった。文庫本や新聞を読む人の数より、圧倒的に多かった。
彼ら彼女らを見ていると、まだ世間にスマートフォンが流通する前、ぼくが大学生の頃のことが思い出された。


       一、

夏、二十歳のぼくは電車の中で文庫本の小説を読んでいた。通学のため、郊外から都心のS駅に向かう午前八時頃の電車だ。
他にも客が大勢いて、その多くが文庫本や新聞を読んでいた。
吊革につかまって立っている乗客を挟んで向かいの席に大学生と思われる美しい女性が座っていた。彼女も本を読んでいた。ぼくは彼女の美しさに惹きつけられた。いつもこの時間にこの同じ車両(後ろから三両目)でよく見かけた。
ぼくはS駅でその他大勢の客と降りたが、彼女はいつも降りなかった。S駅よりもさらに先の都心に通学していたのだろう。
ぼくは毎日彼女を見ていたので声を掛けたかった。でも、向こうはぼくの存在など眼中にないかもしれないし、彼女は他人だ。都会の電車の中で声を掛けるのは不適当と思われた。だけど、ぼくはもう恋をしていた。

大学の講義を受け、S駅にて午後の四時半の帰りの電車に乗った。いつものように進行方向前から三両目だ。もちろん、説明するまでもないかもしれないが、登校時は後ろから三両目、帰宅時は前から三両目に乗るのは、ぼくの利用する駅のホームの乗り降りに便利なのがたまたま三両目だからだ。そのいつも使う三両目にはいつもの席にいつものように彼女が座って本を読んでいた。彼女もまた三両目が使いやすいのだろう。ぼくは向かいの席に腰かけて、文庫本を開いて小説を読み始めた。
ぼくは彼女がどの駅で降りるのかを確認したいと思い、ぼくの独り暮らしの自宅アパートがあるM駅をやり過ごした。
客たちは次第に少なくなっていった。彼女は降りず、ずっと本に目を落としていた。
ぼくはチラチラと彼女を見た。彼女は動かず本を読んでいた。


        二、

次の駅で多くの乗客が降りたが、彼女は降りなかった。すると何名か乗り込んできた乗客の中に、ハンチング帽をかぶったパンダがいた。彼はぼくの前に立った。
彼はぼくに言った。
「ほう、小説を読んでいるのかね?」
「はい、まあ」
「小説はいい。心が豊かになる。私も読もう」
パンダの男性は皮の鞄からハードカバーの本を取り出した。
ぼくは質問した。
「パンダも小説を読むんですか?」
「小説を読まない者はいない。知性を持った動物ならばね」
「読まない人間もいますよ。パンダもふつう読まないでしょう?」
「みんな読むんだよ。なぜなら人生は小説だからだ。出会った一人ひとりが小説であり、その数だけ自分の中に小説が生まれるんだ」
「あなたは作家ですか?」
「私はパンダだ。小説を書くパンダだ。そして君も小説を書く人間だ」
「え?ぼくは小説を書いたりしませんよ」
「時間の流れを認識できれば、みんな小説を作ることになる。過去と未来をつなげることが小説なのだ。目の前の現在しか考えられない動物は小説家ではない。過去と未来をつなぐことができればその者は小説家なのだ。しかも小説はひとつではない。パンダや人間は他人の過去や未来を覗くことができる。それは小説を読むことになる。そして自分の人生という小説に他人をたくさん入れることでそれは豊かな小説になる。パンダも人間も小説家なのだ」
「はぁ、なんかすごい哲学に騙されているような」

駅に着き、多くの乗客が降りていった。向かいに座って本を読んでいる美人女子大生は降りなかった。パンダも降りなかった。ぼくも降りなかった。
ゴリラが乗ってきた。首にネクタイを締め、手にはバナナを一房とハードカバーの本を一冊持っていた。
ゴリラの男は言った。
「ウッホッホ、パンダさん、こんにちは」
パンダは答えた。
「なんだね?買い物かね?」
ドアが閉まり電車は動き始めた。
「バナナを買ったよ。あげようか?あげない」
「どっちなんだね」
「あげない」
「じゃあ言うな」
「バナナはおいしい。でも、小説はもっとおいしい」
ゴリラは本を開いた。
ぼくは訊いた。
「ゴリラも小説を読むんですか?」
ゴリラは答えた。
「あたりまえだ。電車に乗ったら小説を読む。そして、バナナを食べる。これが鉄則だ」
ぼくは訊いた。
「バナナと小説はどちらが大切ですか?」
「どちらも大切だ。バナナは体の栄養に、小説は心の栄養になる」
パンダは言った。
「体と心は別のものだと君は考えるのかい?」
ゴリラは言った。
「別のものというわけではないが、バナナで摂った栄養を使い小説を読む。小説を読んで得た心の活力でバナナを得る。バナナは小説だ。小説はバナナだ」
パンダが言った。
「では、人間にとってはごはんがバナナで、パンダにとっては笹がバナナなのだね?」
ゴリラは言った。
「そうだ。そして、バナナは小説なのだ」
ぼくは訊いた。
「ごはんは小説ってことですか?」
「そうだ。人間にとって、ごはんは小説なのだ」
と、ゴリラは自分の胸をドンと叩いた。
ぼくは意地悪く訊いた。
「では、おかずは?」
ゴリラは答えた。
「哲学、批評だ」
その即答にぼくは訊き返した。
「哲学?批評?」
ゴリラは言った。
「批評は作品がなければできないだろ?哲学は・・・」
電車は駅のホームに滑り込んだ。アナウンスが聞こえた。
「ササヤマー、ササヤマー」
パンダは言った。
「では、私はここで降りる。さあ、今晩は笹をたらふく食べるぞ。じゃあ、またね」
パンダは降りていった。
向かいの女子大生は降りないで、まだ、座ったまま本を読んでいた。
ほとんどの客は本を閉じて降りていった。残ったのは、女子大生とぼくとゴリラと、他数名のサラリーマンだけだ。
「哲学は・・・」
まだ、ゴリラは言っていた。電車は動き始めた。
「哲学は小説に包摂される」
「え?」
「哲学は小説の一部だ」
「すごいことを言いますね。でも、小説よりも哲学のほうが歴史は古いじゃないですか」
ゴリラは言った。
「小説というか物語だ。物語は原始からある。宗教とセットで存在していた」
「宗教ですか?じゃあ、みんな電車の中で宗教をしていると?」
「そうだ、宗教だ。小説も、インターネットも宗教だ。そして、宗教は小説だ」
「インターネットまで出てくるんですね」
「君はまだ知らないだろうが、近い将来、電車の中でもインターネットをするのが当たり前になる。それと小説のどこが違うと思う?」
「ぼくは将来を見たことがないからなんとも言えないんですけど」
「小説は現実だと思うか?」
「いいえ」
「小説は現実の一部だ。だから、この世に存在している」
「まあ、たしかに」
「この世から本がなくなっても、電子書籍がなくなっても、小説は存在し続ける」
「壮大なロマンですね」
駅に着いた。アナウンスが言う。
「ミツリンー、ミツリンー」
ゴリラは言った。
「じゃあ、私はこれで。ほら、バナナを一本やろう。じゃ、また」
ゴリラは降りていった。向かいの女子大生はまだ座って本を読んでいた。
車両の中を見渡すと、ぼくと彼女の他に客はいなかった。ぼくはバナナの皮を剥いて食べ始めた。外はもう日が落ちて暗かった。
 

        三、

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