意思表示のできない寝たきり老人は何のために生きているか
私は特別養護老人ホーム(以下「特養」と表記)で介護の仕事をして九年目になる。
特養には寝たきりで、意思表示をできず、ただ、定時にオムツ交換してもらい、食事の時間にはゼリー食を介助により食べている、そんな老人が何人もいる。ただベッド上で、生命を維持しているだけ、死を待つだけの生活。
私は、「この人たちは何のために生きているのだろう」と思うことが度々ある。
そう思うとき、私は反省する。
「何のために生きているか」そう考えることは、人生には何か目的があり、それを達成するために生きているという、狭い人生観に囚われているのではないだろうか?人生に目的があるというのは、人間を目的のある道具のように考えているのではないだろうか?道具は使用目的があって作られる。例えば、ハンマーは釘を打つために作られる。ハンマーは釘を打つことで自己実現する。
人間は道具ではない。何か目的があって生まれて来るのではない。
若い時は、「自分は何のために生まれてきたのだろう?」と考えることがあるかもしれない。そして、志を持って生き始めるかもしれない。しかし、人間はいつ死ぬかわからない。志半ばで死ぬこともよくあることだ。志を遂げられなかったら、その人生は意味がないのだろうか?そう考えたとき、「何のために生きているか」という問いは別の意味を持ってくる。美味いものを食べるためかもしれない。あるいは仲間と生きる喜びを共有するために生きているのかもしれない。
さて、最初の問いに戻ろう。「特養の意思表示のできない寝たきりの老人は何のために生きているか」
「何のため」というのは人生の目的あるいは目標のことではないだろう。九十を過ぎた寝たきりのお年寄りに、人生の目標はありますか、などと訊くのはなんとなくナンセンスな気がする。人生を終えようとする老人に若者の価値観を当てはめようとするのは、未熟者がすることだろう。
意思表示のできない寝たきりの老人は、もしかしたら、死を迎えるために何か考えているかもしれない。あるいは認知症のために死というものを考えることさえできないかもしれない。
特養の寝たきり老人が何を考えているにしろ、あるいは考えていないにしろ、私は介護者として、日々の介護をするしかない。寝たきりの老人は私ではない。私の判断で「この人は生きる意味はないだろう」などと言って殺して良いわけがない。
人間は生きている目的が明確でなくても、ただ生きているだけで価値がある。むしろ、生きる目的がひとつだけあって、それに向かって生きているということのほうが異常かもしれない。