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統合失調症と文章の関係性

統合失調症と文章の関係性を書きたい。
まず、人は文章に向き合うときふたつの方向がある。
読むことと、書くことだ。
私は子供の頃文章を書くのが苦手だった。しかし、大学時代から文学や哲学などの難しい本を読み続けたためになんとなくその真似事をやっていたら、自信がついた。
私は十六で統合失調症を発症しているのだが、大学は哲学科を出ていて、その卒論などを今、読み返してみると、「うわー、下手だなぁ、病んでるなぁ」と思う。
noteの統合失調症の方の記事を読んでいると、同じように思うことがある。もちろんバカにしているのではない。私の過去の病んでいるときの自分の文章を思い出し、共感するのだ。「スキ」を多くもらう記事は必ずしも文章力のある記事ではない。下手くそでも本音が書かれていれば「スキ」を多くもらうことができるし、閲覧数も伸びるのだろう。
今回、統合失調症と文章の関係性でまず想起したのは、フロイトの精神分析学で、たしか「自由連想法」などというものがあったと思う。自由に思いついたことを言うというものだ。文学ではそれがシュールレアリスムとなって、ブルトンなどが「自由筆記」なるものを始めた。これは自由に思いついたままを書いて無意識を表現するやり方だ。これを統合失調症の人がやると、わけのわからない文章ができるが、本人はスッとするだろう。私も昔から下手な文章を書き続け、自分を解放してきた。しかし、自由に書いてきたわけではない。小説ならばテーマを決めて、構想を練るところからノートにペンで書いてきた。そんなふうに文章を書く私は哲学書などを読んできたせいか本音がわからなくなった。十代の頃は、それでも本音があった。あの頃の私の言いたいけど言えない、これを友達みんなの前で叫んだら自分を解放できるだろうにな、という言葉があった。それは「○○ちゃんのマ○コ、舐めてみたい!」というものだった。私は十代男子だった。この言葉はさすがに品がなく言う勇気がなかった。しかし、それは間違いなく本音だった。私は自分を隠していた。あるいはこれは当時(三十年前)の十代男子の超えねばならない試練として、好きな女の子に「好きだ」と一言言うことがあった。それだけで自分が変われると思った。私は言えなかった。「好きだ」と言える人は恐らく統合失調症にはならない。統合失調症とは本音を頭の奥に閉じ込め鍵をかけた状態であるような気がする。その本音を引き出すために、思いついたことをつらつら書く、自由筆記は有効だろうと思う。それは統合失調症のリハビリになる。初めは思いついたことを自由に書くだけでいいが、次第に自分の考えをどう伝えるか、客観的に見てこの文章で言いたいことが伝わるか、などと考えるようになり、そこに社会性が出てくる。このnoteというSNSは長文が書けるところがいい。このサイトも社会だ。ここに自分の思ったことを書いて、読まれる喜びを知ることは、統合失調症からの素晴らしいリハビリになると思う。
書くほうばかりを強調してきたが、読むほうも大事だと思う。とくに名著と言われるものは、美しい文章で書かれていることが多い。そのような名著を読んで、実験的にその文体を書くことに取り入れたりすると、文章が上手くなるかもしれない。あ、やっぱり私は書く方が好きらしい。読むことについて書こうとしたら、結局、書くことについて書いている。
先にあげたブルトンの自由筆記。これをやると、本当の自分が見えてくるかもしれない。
文章を書くことで本当の自分、本音が見つかる。そして、統合失調症から、精神の在り方が良い方向へ向かうと思う。リハビリとしてぜひすすめたい。

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