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小説と映画の違い(文章表現と映像表現の物語)
「彼は丘の上へ走った」
という一文があるとすれば、ここから読み取れるのは、「彼」だから男であり、その男が丘の上に走ったことのみである。
もしこれを映画で撮った場合、彼は何歳くらいの男なのか、どんな顔をしているか、体格はどうか、どんな服装をしているか、走り方はどうか、丘とはどんな丘か、岩肌の見えた裸の丘か、木々が生えた丘か、草むらの丘か、坂道を走ったのか、そうだとしたらその道は土の道か石畳の道かアスファルトの道か、丘の高さはどの程度か、道の左右に家はあるのか、天気はどうなのか、時刻はいつか、などなど、必要な情報が膨大に膨れ上がる。
文字表現の小説では、「彼は丘の上へ走った」と書けば、あとは読者が想像してくれる。
そして、ここには上に述べた映画の情報だけではなく、カメラはどの位置から「彼」を撮っているかという視点もある。
その点、小説はカメラの位置は決めなくても表現ができる。
「彼は宵闇の街灯に照らされた丘の町の坂道を駆け上った」と書いたとする。そうなると、上に書いた「彼は丘の上へ走った」よりは情報量が増える。
それでも映画の情報量よりは少ない。
しかし、そこが小説の優れたところで、必要な情報だけ与えて、あとは読者の想像に任せた方が効果が上がることがある。
「彼は宵闇の街灯に照らされた丘の町の坂道を駆け上がった」では、その坂道が舗装されているかどうかは書かれていない。しかし、読者は、自分が過去に見てきた、丘にある町の坂道を想像するだろう。
この場合、情報を作り手がすべて決めて、観客に提供する映画のほうが、観客は想像力を使わずに済む。カメラの位置も決まっていて、「走る彼」を横から撮ったのか、前から撮ったのか、後ろから撮ったのか、上から撮ったのか、限定される。しかし、文章表現ではそこをわざと限定しないというテクニックがある。もちろん限定できないという無能な小説家もいるかもしれないが、有能な小説家は、カメラの位置を限定する場面とそうでない場面を使い分けるだろう。
例えば、「その海岸から東の海を見渡せば、水平線に赤い太陽が昇った」と書けば、カメラは海岸にあり、水平線に昇る太陽を見るという映画的な描写ができる。そこに小説の自由さがある。
映画のほうが観るほうは楽だ。小説は少し前のめりになって、好意的に読まねば入り込めない。いや、そこを入り込ませるのが小説家の腕の見せ所だろう。ただ、映画的手法のみを使って、小説の世界に読者を引き込むのは、映画ではなく小説を書くという意味はないと思う。
私は常々、「映画のような小説を書きたい」と言っているが、その意味するところは、映像表現のような小説ではなく、二時間程度で完結する映画の物語の構成に魅力を感じているからだ。あの長さの物語が一番面白い。人間が面白い話として、記憶できるのは、二時間程度の映画にされるような物語である。まあ今回の記事は物語についてではなく、文字表現と映像表現の違いであるから、話をそこに戻そう。
私は上に述べてきたのは、すべて三人称小説についてだ。一人称小説を小説の特徴に捉える人もいるが、これは違う。映画でもそのようなものはある。あるいは小説のほうが登場人物の心理を正確に書くことができるというのも誤りで、言葉にしない映画の役者の微妙な表情のほうがその人物の心理を克明に描き出していることがある。私は哲学みたいに人間の心理を文字で描写するのが嫌いで、わずかなセリフと行為でその人の感情を示したいタイプの小説家だ。文字で心理を分析することの誤謬性を私は危険に感じている。人間の心理は言葉で説明され尽くせるほど単純ではない。眉間の皺が、口元の歪みが、目尻の皺が、瞬きが、その人物の心理のすべてを物語っていることのほうが当を得ている。だから、三人称のほうが私は好きだ。小説である以上行為によって物語が展開される方が面白いと思うのだ。
では、映画より三人称の文字表現が面白いと思えるには小説家はどうすればいいか。それは、上に述べたように、文字表現では、映画と違って、多くの部分を読者の想像力で補う。作者と読者の共同作業で作品は成り立つ。だからこそ、読者に効果的に刺激を与えるのが小説家の役割であり、映画のように何でも作り手が表現してしまうのではない。文字の列はすべてを表現しないがその背後に無限の想像力をかき立てる世界を作るのが良い小説家だと思う。
映画が小説に近づく傾向があるし、小説が映画に近づく傾向もある。しかし、それらは刺激し合う関係だが、小説は小説にしかできないことがあり、映画には映画にしかできないことがある。それは一人称とか三人称などわかりやすい点にあるのではなく、文字表現の可能性と映像表現の可能性は違うということだ。