フィクションからの解脱。宮崎駿『君たちはどう生きるか』と仏教
仏教の目的は解脱することである。
解脱とは何か?
私はよくわからなかった。
最近、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』について文章を書いたとき、解脱の意味がわかったような気がした。
宮崎駿は、アニメなどフィクションの世界は「呪われた海だ」と言う。
壁の上に牛の角が見えるのを見て、人は壁の向こうに牛がいるのだと思う。しかし、もしかしたら、人間が牛の角を持って、壁の上にそれを出してこちらを騙しているかもしれない。つまり角だけを見て牛の存在を知ることは誤りである可能性がある。しかし、我々は角だけを見て牛の存在を考えるように、多くのことをそのようにして現実世界のイメージを頭の中で描いている。テレビでしか見たことのない有名人の実在を疑わなかったりする。もしかしたら、テレビの中の有名人はCGで作られた架空の存在かもしれないが、私たちはその人が実在すると簡単に信じてしまう。真実の世界は、目の前にある物しかないことになるだろうが、先に述べたように、壁の向こうの牛さえ、実在するかわからないのに、実在する物とみて、目の前の現実と判断する。しかし、その判断は誤りなのだ。私たちが見ているのは壁であり角である。そのように見ることが解脱である。いや、解脱した場合、壁とか牛の角とか概念的な判断は下されないだろう。しかし、生きている私たちは必ず、思考の中で概念を使う。つまり生きているかぎり、解脱はできないと私は思う。
宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を考えると、フィクションの美しい世界は、しょせん現実ではないと言っているようだが、実はそのようなフィクションが私たちの生きる現実では大きなウエイトを占めている。私たちは生きているかぎり、フィクションと共にある。宮崎駿など芸術家が作る美しい世界はすべて現実である。けっして虚しい物ではない。むしろ芸術、フィクションのない世界こそ、死の世界だ。私たちは死ぬことでしかフィクションから解脱することはできない。もちろん、短い時間であればフィクションを忘れ、目の前の壁だけを見つめることはできるだろうが、生きているかぎり概念を使うので、絶えず私たちはフィクションと真実を往復する。死ねばその往復は終わり、永遠の解脱に至れるわけだ。だから、素晴らしい人生とは、素晴らしいフィクションと共に生きることであると思う。人生は解脱できないからこそ素晴らしく、生きるに値する物である。
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