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【即興短編小説】努力のムコウ
俺は高校二年に上がる頃、野球部を辞めた。
俺は小学生の頃から野球をやっていて、高校で甲子園に出るのが夢だった。しかし、中学時代、思うように振るわず、高校も地元の野球の弱い進学校に進んだ。一応野球部に入ったが、一年時は試合に出してもらえず、二年生になっても俺は試合に出してもらえそうもなかった。
俺は中学時代から、イップスを抱えていた。イップスとは精神的な原因で、ボールを思うように投げたり、バットを思うように振ることができない病気だった。俺は野球に絶望していた。中学の部活動が終わった夏、俺は高校入学までボールもバットも握らないと誓った。もしかしたら、高校生になったときにイップスが治っているかと思って。そして、高校までの間、野球を忘れるために小説家になることを将来の仮の目標にした。実際、小説にハマっていた。
しかし、中学時代の俺の野球部のパートナー、ヒロは中学三年生の秋になってもキャッチボールに誘うため俺の家へ来た。俺がショートで、ヒロはサードだった。俺が一番バッターで、ヒロは二番バッターだった。試合で俺が一塁に出ると、ヒロは確実に送りバントで俺を二塁に進めてくれた。練習の時のキャッチボールはいつも一緒で、トスバッティングや柔軟体操などもパートナーだった。
そんな俺だったが、ピッチャーをやるように監督に言われ、「高校では甲子園のマウンドに立ちたい。そして、ピッチャーとしてプロ野球選手になりたい」と思った頃からおかしくなり始めた。俺は守備もバッティングも上手いほうだったが、ピッチャーとなると球速がなければならなかった。俺の球は打ちやすいと仲間から言われた。俺は努力した。どうしたら、速い球が投げられるか?筋肉トレーニングをしてフォームを改造した。投げる球も、コントロールより、速さを重視した。
中学二年生の終わり頃、ヒロとキャッチボールをしていたとき、何度も暴投した。
「わりい、わりい、ヒロ、手元が狂っちまった」
するとヒロは言った。
「最近、おまえ、おかしいぞ?おまえのいいところは針の穴も通すコントロールだったじゃないか?」
「いや、投球フォーム改造中なんだ。そのうち、コントロールもついてくる」
しかし、コントロールは戻らなかった。いつもボールを投げる瞬間、違和感があり、まともに投げることができなかった。試合でショートを守っていて、簡単なゴロが来ると、捕るほうはいいのだが、投げる瞬間、違和感がして悪送球してしまうことが多くなった。バッティングにもなぜか同じことが起こった。バットを振る感覚がおかしかった。打つことができたとしても、まったく気持ちよくないのだ。楽しくないのだ。結局打てなくなり、エラーばかりしている俺はベンチを温めることが多くなった。ヒロが代わりにショートを守るようになった。俺は監督のお情けでサードを守ることもあったが、最後の試合、俺のエラーで負けた。俺は泣いた。努力をしたのに、努力のために俺はダメになった。
同じ高校に進学した俺とヒロは弱小野球部に入った。俺には野球への未練があった。なぜなら、俺にとって高校野球がすべてで、その後は余生だと、思っていたほどだからだ。しかし、このとき俺には第二の夢、小説家になることにも本気になれる魅力を覚えていた。
高校の野球部では、俺はやはりイップスを克服できなかった。ショートには他の中学から上手い奴が入っていて、そいつはいきなり三年生の試合に出てヒットを打つような奴だった。弱小野球部とは言ったが、地域の中学から集まった精鋭である。中学で野球部だった者で高校でも野球を続ける人間は単純に計算して少なくなるのだ。ヒロも一年生には他に上手いサードの奴がいて、三年生になったときのレギュラーは難しそうだった。
俺はイップスで上手くいかず、練習中も小説のことを考えている始末だった。
俺は高校二年に上がるとき、ついに野球部を辞めた。
荷物をまとめ、部室を去る俺をヒロは校門で呼び止めた。
「なんで、やめるんだよ?レギュラーになれないからか?」
「ちがう!」
実はこのとき、俺はイップスという現象を多くの野球選手が経験しているとは知らなかった。俺は自分ひとりが野球に拒絶されているように感じて、世界の中で独りぼっちだと思った。ヒロの友情が、映画を観ているように客観的に見えた。
俺はヒロに言った。
「俺は小説家になりたいんだ」
ヒロは言った。
「高校野球はおまえの夢だったんじゃないのか?俺とこの高校で三遊間を作って・・・」
「甲子園に行くのか?」
俺は冷笑して言った。
すると、ヒロは俺の頬をビンタした。
「バカヤロウ。甲子園は俺たちの夢だったじゃないか?」
「それが叶うと思うか?」
「たしかに、このチームは弱い。せいぜい、県で三回戦突破できればいいようなチームだ。でも夢ってのは、そういうもんじゃないだろ?」
「おまえ、高校卒業後はどうするんだよ?まさか、大学で野球をするんじゃねーだろうな?どうせ補欠になるのに」
「卒業後なんてどうだっていいだろう?俺は・・・俺たちは、熱くなれたらそれで良かったんじゃないか?」
「俺は小説に熱くなっている。大学在学中に芥川賞獲ってデビューしてやるぜ」
「嘘だ!おまえの夢はそんなんじゃねえ!」
「もう退部届は出しちまったよ」
俺は自転車に乗り、校門を出た。
後ろからヒロの視線を痛いほど感じた。
俺は帰宅部になった。
二年生になったときから俺は受験勉強を始めていた。東京の有名大学に進むためだ。それと、小説をよく読み、書いた。
ヒロは三年生になってレギュラーになれないのに野球部を辞めなかった。
俺は学校の二階にある図書館から、グラウンドを見下ろし、熱心に送りバントの練習をするヒロを見ていた。
ヒロ、おまえは送りバント専門ピンポイントの代打になろうと努力しているのか?そんなもんになってどうする?そんなことやってても、甲子園に行けるわけじゃないし、大学へ推薦で行けるわけでもないだろう。
俺が図書館から見ている間ずっと、何度もヒロはバント練習を繰り返していた。
そして、夏になった。
野球部の県大会一回戦、俺の高校は全校応援となった。ただ、受験生の三年生は希望者のみ参加だった。俺は行くか迷ったが、結局行くことにして、学校の前に何台も停まっている送迎バスに乗った。
野球場に着くと俺は一塁側スタンドに立った。
グラウンドでは、試合前のウォーミングアップで選手たちが体を動かしていた。
俺はその光景を見ただけで、本来の俺の生きる場所を死者の世界から見ているような気がした。
そして、試合が始まった。
周りが応援団のかけ声に合わせてメガホンを叩き声援を送るのに、俺は黙って静かに試合を見ていた。ヒロはベンチにいた。弱小野球部は強豪校のように、三年生がベンチ外にされることは、人数が少なければまずなかったと思う。
ヒロ、おまえはそれでいいのか?
野球に集中するあまり勉強をしてないだろう?こんなことで将来が台無しになったら・・・
俺は自分の思考に苦笑した。中学時代の俺が大嫌いな思考をしていたからだ。
これが大人になるってことなんだろうな。
試合は最終回まで進んだ。同点で迎えた九回裏、ワンアウト、三塁で、こちらの攻撃だ。
そのとき、監督が動いた。
代打だ。
代打の打者は、バッターボックスに向かった。ヒロだ。
俺は立ち上がった。
「この場面で代打ヒロ、間違いなくバント、つまりスクイズじゃないか。ヒロは体が小さい。相手に読まれるぞ。バカか?」
内野手は前進守備をした。
ヒロは打席に入った。
打つ気満々のフリをしている。
初球をピッチャーが投げる瞬間、三塁ランナースタート、ヒロはバントの構え、内野手は前進、ピッチャーの投げた球は、ストライクゾーンから大きく外れた。
ほら見ろ、完全に読まれていた。
しかし、ヒロは飛びついた。
なんと、左手一本でバットを持ち、目一杯腕を伸ばしてボールにバットを当てた。球はピッチャー前に転がり、前進してきたピッチャーが、キャッチャーに向かってボールをグラブトスした。しかし、滑り込んだランナーへのタッチより、ランナーの左手がホームベースを触る方が早かった。
主審のセーフの判定が出ると、ベンチから仲間たちがホームベースのヒロに駆け寄って、彼の頭をポカポカ叩いて喜び合った。もみくちゃにされたヒロは本当に心から笑っていた。
それをスタンドで見下ろしていた俺は、涙を流してそこに立っていた。
「なぜ俺はここにいる?」
(了)