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時代の中の小説家

私は小説家を目指している者だ。
以前から平野啓一郎の知識に憧れて、彼の「分人主義」を批判する文章を書いたりしている。
最近わかったのだが、彼の「分人」という言葉は、哲学者ドゥルーズが作ったものだということだ。哲学的に無知だった私は「やっぱりな」と思った。平野啓一郎は「知識人」である。彼のテーマにすることは思想史上の現代的テーマなのだろうなとは思っていたが、なんだ、ドゥルーズか。私にとってドゥルーズは『アンチオイディプス』を読んだがわからず、諦めた哲学者だ。私は高校生の頃から精神を病んでいて、偶然大学は哲学科に入ってしまい、精神病を哲学で内側から治す、みたいなふうに考えていたが、社会人にならねばならない時期が迫ってきた大学三年生の時に、精神科に頼ろうと受診した。それ以来、薬を飲み続けている。だが、哲学や文学については大学卒業後も向上心がありいろいろと読んできた。しかし、哲学は精神病を上手く自分の中で整理するには良いが、健康に生きるためには向いていないと考えるようになった。そのきっかけのひとつがドゥルーズだ。
私は精神病発症以前から物語を作る仕事に就きたいと思っていた。当時はマンガ家志望だったが、病気ではマンガを描けないと判断したのが精神科を受診したきっかけである。そして、大学卒業後、小説家志望に転向した。平野啓一郎に出会ったのは、大学生になったばかりのことで、彼が『日蝕』でデビューしたときのことだ。しかし、彼の知識に憧れたことはあるが、作品に憧れたことは一度もない。私は宮崎駿のアニメやマンガに強烈に憧れていた。今もである。
しかし、宮崎駿は私が思うような知識人ではない。哲学的な知識ならば私のほうが彼よりもあると思っている。それでもあの作品世界には強く憧れるのである。
私の父の書棚には三島由紀夫ばかりがあって、彼のエッセイなどをエロ本代わりに読んでいた中高生だった私は、三島由紀夫みたいな小説も書けるが評論も書ける人に憧れていた。それが平野啓一郎にはあった。
しかし、私は平野啓一郎のような小説家になりたいとは思わない。宮崎駿みたいに一作一作が話題になる小説家になりたい。そういう意味では、現在活躍しているそういう小説家は村上春樹くらいだろう。私は村上春樹の長編が出ると購入して読んでいるが、平野啓一郎の小説が出ても読まない。しかし、「分人主義」などの思想には興味があるため、『本心』などという題名の小説を書かれると、思想的に惹きつけられるものがあるが、先に述べたように、哲学は健康に生きるためには良くないと思っているので手を出さないことにしている。
平野啓一郎は文学史上の小説家だと思う。それは哲学で言えば、イギリス経験論と大陸合理論、ドイツ観念論、実存主義、構造主義、ポストモダンなどというふうに、歴史の流れとして語れる系譜が文学にもあり、その意味では平野啓一郎は今の日本においては系譜上の重要な作家なのだろうと思う。それはあとになってからわかることだが。
私はそういう系譜上の小説家になりたくはない。普遍的な小説、いや、物語を書きたい。しかし、普遍的という言葉自体が思想史上古いのかもしれない。私たちはどう足掻いても時代の中に生きている。
私は宮崎駿の『天空の城ラピュタ』が大好きだが、今観てみると、八十年代の匂いがプンプンするのである。しかし、描かれていることは、空中楼閣への憧れであり、冒険物語であり、人類が古くから憧れてきた世界をカタチにしたもので、そういう点では普遍的であると思う。時代を超えるものだと思う。
宮崎駿は先に述べたように知識人ではない。純粋にサンテグジュペリに憧れ、彼の思想を生きる指針にしている人である。三島由紀夫や平野啓一郎は、現代思想の文脈で自分の思想を語る知識人である。宮崎駿は知識ある人にコンプレックスを持っていて、例えば立花隆をジブリに呼んで講演を聴いたりしていたらしい。
しかし、小説家は知識人である必要があるのか?
宮崎駿みたいに独創的な世界観を作ることが出来ればそれで足るのではないだろうか。作品の外部で場外乱闘して自分の価値を高める必要はないだろう?自分の作品を解説してしまうのは、作品の力が弱い証拠ではないだろうか?宮崎駿はバカみたいだが、場外乱闘することで自分の作品の価値を低めはしないものの、無知をさらけ出している。いや、宮崎さん、アニメーターは哲学者じゃないよ。まてよ、これは小説家にも言えるかもしれない、平野さん、小説家は哲学者じゃないよ。
小説家は作品で全てを語れるくらいでなければならないと思う。
小説家は評論の世界に出て行くべきではないということだ。現代美術が、思想にやられて、方向性を失ったように、小説は思想に矯められるべきではない。私は小説は物語であると思っている。デュシャンのように、便器にサインして「これが小説だ」という偉大な小説家が出ないことを望む。物語を見失ったら、小説は核を失うと思う。美術みたいに、「美術とはなにか」みたいなテーマを追いかけるようになったら小説はおしまいだ。「小説とは何か?」そんなことが小説のメインストリームになってはいけないと思う。芥川龍之介と谷崎潤一郎の討論みたいに、「小説は筋が重要か」という議論は物語として小説を考える者にとって、危険な議論である。そして、筋が重要ではないと言った芥川龍之介の名を冠する芥川賞が文学のメインストリームのようになっている状況は、物語としての小説にとって危険な状況である。
小説は物語だ、面白くなくてはならない、と言っている村上春樹は私の同志である。
そもそも歴史上の流れとはそれ自体が物語で、哲学者のリクールは『時間と物語』という三巻ある哲学書の最初の一巻をまるまる、「歴史」に当てている。歴史とは物語である。天下人を信長、秀吉、家康、みたいな流れで歴史を語ること自体、歴史が物語であることを証明している。先に触れた美術史も物語である。それが小説の歴史が物語化して、単なる思想史みたいになったら、作品のひとつひとつの独立性は低まるのではないだろうか。平野啓一郎の作品を「分人主義」の色眼鏡で見なければいけないとしたら、作品のひとつひとつは独立性が薄まるのではないだろうか?平野の作品が時代性のあるゆえに文学史に残るとしたら、それは逆に文学史に埋もれてしまうことではないだろうか。つまり、その歴史の文脈の中でしかその作品を評価できないとしたら、その小説は独立した存在としては弱い存在になるということだ。
文学史自体は物語になってはならない。小説は歴史の中に点在する島のように独立して際立っていたほうがよい。
時代の中で共通のひとつのテーマに苦渋する知識人たちに仲間入りするよりは、好きなことを自由に書いて、独立した島を作る方が、はるかに魅力的であり、そのような独立した傑作が乱立する時代であるほうが、ひとつのテーマにみんなで取り組むよりは物語にとって良い時代だと言えないだろうか?

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