小説『逆上がり』
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小学校のグラウンドの片隅に普段存在感の薄く児童たちからほとんど忘れられてしまいがちな伝統的体操器具、鉄棒はある。巨人のように聳えるそれの前で四年生の僕は自分の順番になるのを体育座りで待っていた。体中が強張るほどに緊張しながら、冷汗さえ蟀谷(こめかみ)を流れた。前にはクラスメイトが三人、同じように体育座りで並んでいる。その前には鉄棒に向かってクラスメイトたちがまるで戦場に駆けて行く歩兵隊のように横一列になって逆上がりに挑んでいた。午前中の体育の授業、秋の空は晴れ渡っていたが、僕の真上の空だけはその青さとは正反対であるほどに淀んでいた。僕には逆上がりというものが、小学生として避けては通れない登竜門だと思われた。他にもそういうものはあり、勉強では九九を覚えることや漢字を読めるようになるということがこの社会で生きていく上で欠かせないものだった。ここで躓いては人生に関わる。勉強以外で言えば、例えば自転車に乗れるようになることがあった。これは小学二年生のときに補助輪なしで乗れるようになった。何度も転んだ。親も練習を手伝ってくれた。何度も何度も転び、最終的に乗れるようになったときの気持ちは人生に勝利したとさえ思える感慨だった。その達成感をこの逆上がりでも得なければならない。もう順番はあと一人というところまで来ていた。
僕の前で逆上がりに挑もうとしているのは運動神経抜群の悟郎(ごろう)君だった。悟郎君は鉄棒を握った。その棒を腹に押し付けて、足で地面を蹴った。美しいというか、華麗な逆上がりだった。担任の二十代独身男性教師、山田(やまだ)先生は腕を組んで笑った。
「さすが悟郎だな。もう一回やって見ろ」
悟郎君はもう一回、逆上がりをやった。まるでお手本の動画を見ているかと思うほどだった。悟郎君が鉄棒から離れると、いよいよ僕の番になった。僕は逆手で鉄棒を握った。きつく握りしめた。手には少し錆びた鉄棒のざらざらした感じと汗のじっとりとした湿り気が混じり合っていて、その感触がなぜか僕を余計に緊張させた。
「もし出来なかったら!」
その想いが頭の中のほとんどを占めていた。僕は小学校に入ってからほとんどすべての登竜門をくぐって来た。出来ないのは恥だと思った。冷汗が体中から出て、体操着がじっとりと濡れ、気持ち悪かった。僕は深呼吸してから気合を入れて逆上がりをしようと勢いをつけて地面を蹴ろうとした。そのとき。
「勝(まさる)!逆手じゃなくて順手にしろ!」
「え?」
僕は集中し過ぎていたのか、いきなり山田先生が僕の名前を呼んだので体に入った力のやり場を失った。地面を蹴ろうとした足は突然の中止に驚いてブレーキを掛けようとしたが、砂に滑ってザザ―と前方に伸びた。僕は両手で鉄棒にぶら下がる形になった。僕は見上げて言った。
「え?先生、なに?」
山田先生は腕を組んだまま言った。
「手が逆手になっているだろう。順手のほうが基本だ」
「え?順手?順手ってなに?」
僕は元のように鉄棒の前に立ち上がった。山田先生は近づいて来た。そして鉄棒を右手で握った。
「こうだ」
その手は上から鉄棒を握っていた。僕はすぐに了解した。順手とは上から握ることで、逆手とは下から握ることだ。僕は大きなミスをするところだった。山田先生に救われた。僕は順手に持ち替えた。順手にしても同じ鉄棒だ。じっとりと汗で濡れ錆びついた表面がざらざらとしている。僕はもう一度、逆上がりに挑んだ。体に勢いをつけ、地面を蹴ろうとした。その瞬間、山田先生がまた何か言った気がした。僕は足にブレーキを掛け、さっきと同じように足を砂に滑らせ、鉄棒にぶら下がった。
「なに?先生」
山田先生は眉を片方上げた。
「なんだ?勝。俺は何も言ってないぞ」
「え?じゃあ、気のせいか」
僕はまた、体を立て直し、順手で鉄棒を握って、三度目の挑戦をした。しかし、なぜか地面を蹴る勇気が出なかった。腕は伸びきって鉄棒にぶら下がる形になった。先ほどと同じ形だ。僕はおかしいなと思って元の位置に立った。僕は何度も挑戦したが、足を蹴り上げる瞬間、なぜか躊躇いが生じて体が鉄棒の上に乗らなかった。周囲を見ると多くのクラスメイトたちが、逆上がりを成功させていった。
「出来た者は授業が終わるまで好きなことをやっていていいぞー」
と山田先生が言うと、免罪符を得た悟郎君たち優秀な子はみんなでドッジボールを始めた。中には倉庫から一輪車を持って来て始める女子もいた。僕は冷汗が頬を伝わるのがわかった。「このままでは僕は落ちこぼれだ」。結局、逆上がりが出来ない子は僕を含めて四人残った。他の三人は、男子がふたり、女子がひとりだった。ふたりの男子は羊(よう)君と真紀(まき)君、女子はイッちゃんと呼ばれる太った子だった。その子たちは普段から運動の苦手な子たちで失礼ながらも僕は、「この人たちと一緒にされたくない」と思った。小学四年生の僕のプライドが、彼ら運動の出来ない子たちを差別していた。僕はどちらかというと悟郎君たちと同じようなクラスの中心的存在で、運動の出来ないダメな子というキャラではなかった。僕は悟郎君たちがドッジボールを始めたのを羨まし気に見ていた。山田先生はそんな僕に注意した。
「ほらほら、勝、どこ見てるんだ。ドッジボールがしたかったら、逆上がりを成功させろ」
「うん」
僕は鉄棒を握った。また、僕は地面を蹴った。足は上がった。でも、回転せずにすとんと落ちた。僕はまた、鉄棒にぶら下がる形になった。山田先生は言った。
「勝、もっと肘を曲げて体を鉄棒に引き寄せて見ろ。ほら、羊の方が上手いぞ」
僕の隣では羊君がもう少しで出来そうなほどに足を上げていた。その隣では女子のイッちゃんが地面を蹴った。鉄棒は体に密着していた。もう少しで膝が鉄棒の上に掛かりそうになったが、勢いが足りないのか、すとんと落ちてしまった。山田先生はイッちゃんを励ました。
「惜しいぞ、郁美(いくみ)。その調子だ」
イッちゃんのさらに隣には真紀君が頑張っていた。真紀君もイッちゃんのように太っていた。体重が重いせいか、なかなか逆上がりが出来なかった。いや、体重のせいなのか?僕は考えた。僕は太っていない。逆に羊君のように痩せてもいない。
「よし、おまえら、ちょっと練習してろ。体育倉庫から補助板を持って来る」
山田先生はそう言い残して、グラウンドの隅にある倉庫の方に小走りで行った。
僕はまた、逆上がりに挑んだ。地面を蹴る瞬間、どうしても躊躇いが生じてしまう。怖がっているのだろうか?自分でもわからなかった。
山田先生が補助板を持って来て鉄棒の反対側に置いた。最初に羊君が使った。羊君は斜めの平らの板である補助板を駆け上がり、バンッと蹴った。するともう少しで出来そうだった。山田先生は羊君に近づいて言った。
「俺が補助してやる。羊、もう一回補助板を使ってやってみろ」
羊君は補助板を蹴って足を上げた。その背中を山田先生は巧みに支えて、羊君の体を鉄棒から離れないようにした。羊君は補助板と先生の補助付きで逆上がりを成功させた。
「やった。出来た」
羊君は目を大きく開いて喜んだ。山田先生は頷いた。
「今の感覚を忘れずに今度は補助板だけでやってみろ」
羊君は補助板を駆け上がった。すると羊君の体は鉄棒をくるっと回って一瞬のちには鉄棒の上に上がった。
「出来た」
羊君は何度も補助板を使って逆上がりを成功させた。
次は僕が補助板を使って逆上がりに挑戦した。しかし、蹴るタイミングがわからず。なぜか僕の体は鉄棒を回転しなかった。隣で羊君が上から見下ろすような態度で言った。
「板を駆け上がったら、最後にバンと蹴って見ればいいと思うよ」
僕は羊君に言った。
「うるさいな。おまえだってまだ、補助板を使って出来る程度じゃないか。威張るなよ」
「でも、勝はそれすら出来ないだろ?」
羊君は皮肉な笑みを浮かべた。
「なんだと?」
僕は殴ってやろうかと思ったが、先生がすぐ側で見ているし、こんなところで羊君と喧嘩していること自体がバカげていると思って怒りを鎮めた。僕はもう一度補助板を蹴って逆上がりに挑んだ。しかし、失敗した。「あのときだ。最初に逆手で挑もうとしたとき、山田先生が突然『順手にしろ』と言ったせいだ。あれで蹴るタイミングがわからなくなった。そうだ、山田先生が悪い」そう思ったところでどうにもならないことはわかっていた。
次に、補助板を使ったのはイッちゃんだった。イッちゃんの太った脚は補助板を駆け上がり体はくるっと回転し鉄棒の上に上がることが出来た。山田先生は笑顔になった。
「お、郁美、いいな。その感覚を忘れるなよ」
その感覚・・・僕には「その感覚」がわからなかった。それは出来る者にしかわからない感覚だった。
最後に補助板を使ったのは真紀君だった。彼も太っていた。その太った肉が補助板を駆け上がりくるっと回転した。成功したのだ。これで補助板を使っても出来ないのは僕だけになった。
僕以外の三人は補助板なしで逆上がりに挑み始めた。僕だけが補助板で練習した。それなのに僕は補助板を使ってさえ成功しなかった。そして、チャイムが鳴る五分前になったので、山田先生は授業をやめて、児童たちに教室へ戻るように指示した。僕を含めた四人だけが逆上がりが出来なかった。
昼休み、僕は悟郎君に逆上がりを見てもらった。昼休みのグラウンドは多くの児童がサッカーをしたり、ドッジボールをしたり、鬼ごっこをしたり、遊具で遊んだりと賑やかだった。隅の鉄棒前にいる真面目な顔をした僕たちふたりはその喧しい世界とは異なる静寂の世界に疎外されているかのようだった。その疎外に付き合ってくれている悟郎君は言った。
「勝は腕の力が足りないんじゃないかな?」
「腕の力?」
「体を鉄棒に引きつけておく力だよ」
「じゃあ、どうすればいいかな?」
「筋トレしてみたらどうかな?」
「筋トレ?」
「腕立て伏せとか」
「腕立て伏せ?」
「家でも出来るだろ?僕もサッカーのトレーニングでよくやるよ」
「手は使っちゃいけないスポーツなのに腕を鍛えるの?」
「全身を使うスポーツだよ、サッカーは」
僕はその日、家に帰ると腕立て伏せを行った。十回やるだけでも大変だった。それでも頑張って二十回やった。僕はスポーツは遊びでやったりするばかりで、スポーツクラブには属してなく、本気で体を鍛えたことはなかった。僕は小学四年生の秋にして修行僧になったつもりで誓った、絶対に逆上がりを成功させるぞ、と。
〇
次の体育の授業は僕たち逆上がりの出来ない四人以外は、サッカーをやった。僕と羊君、真紀君、イッちゃんの四人は山田先生指導の下、グラウンドの隅にある鉄棒で逆上がりにチャレンジした。まるで僕たちだけが、グラウンドでサッカーをしている人たちのいる世間から遠く離れた孤島に取り残されているかのようだった。
僕は補助板を使っても全く出来なかった。それなのに隣で羊君は、逆上がりを成功させた。羊君はガッツポーズをして大声で喜んだ。
「やった、出来た、僕は逆上がりが出来たぞー」
僕にはその大声が僕に対する嫌味のように聞こえた。山田先生は窘めた。
「一度出来ただけで『逆上がりが出来ます』とは言えないぞ。もう一度やってみろ」
羊君は少し不貞腐れて、もう一回、逆上がりに挑んだ。しかし、失敗した。羊君は、「あー、くそ」と言って悔しがった。山田先生は助言した。
「出来たときのイメージを大切にするんだ。イメージと言っても映像のことじゃないぞ。体の感覚だ」
すると、鉄棒の隅っこで、「あ、あ、ああ」という声が聞こえた。見ると真紀君だった。体が逆さまになって両方の太ももが鉄棒に乗っている彼は逆さまになったまま言った。
「先生、これ、出来たって言えるかな?」
山田先生は少し笑った。
「半分な。あとは体を起こすだけだ。いま、そこまで出来た感覚は大切にしなさい」
すると今度はイッちゃんが逆上がりに挑んだ。
「よーし、えいっ」
地面を蹴り、太ももが鉄棒に乗っかり体が回転した。体は鉄棒の上になった。成功したのだ。
「やった、あたし、出来た。先生、出来ましたよね?」
山田先生はにこりとして頷いた。
「うん、やったな。その感覚を忘れずに、もう一度やってみなさい」
「はい」
イッちゃんはもう一度挑戦し、成功させた。
「あたし、もう出来る人?」
山田先生は笑顔で褒めた。
「うん、出来る人だ。あとはサッカーに行くなり、ここでもう少し練習をするなり好きにしなさい」
「はーい。羊君、真紀君、勝君、頑張ってね。あたしはサッカーに行くね」
イッちゃんはグラウンドの中央でサッカーをするクラスメイトたちの中へ溶け込んで行った。まるで刑務所から出所して明るい世間に解放された元囚人の背中を見ているような気持で僕はイッちゃんを見送った。
僕は悔しかった。「あんなデブに負けているのか」などと不適切な悔しがり方をした。僕は補助板を駆け上がった。しかし、太ももを鉄棒に乗せることすら出来なかった。
すると、隣で羊君が逆上がりを成功させた。
「やった、また出来た。先生、これ本物だよね」
「もう一回やってみろ」
山田先生がそう言うと、羊君はもう一度逆上がりを成功させた。
「ほら、やった。もう、まぐれとは言わせないぞ」
山田先生も頷いた。羊君は得意げに鼻を高くして言った。
「この世には二種類の人間がいる。逆上がりの経験がある人か、ない人か」
この言葉を聞いたとき僕は心臓をえぐり取られたような気持ちがした。羊君は笑顔を先生に向けた。
「じゃあ、僕はサッカーに行ってきます」
心臓を失った僕は、巣立っていく兄弟鳥を見送るまだ飛べない雛の気持ちで、サッカーをしているクラスメイトたちの中に駆けて行く羊君の背中を見送った。
山田先生は僕の気持ちを察しているように言った。
「勝、真紀、おまえたちもサッカーをしたいか?」
僕と真紀君は頷いた。山田先生は真剣な表情をして言った。
「あそこでサッカーをしているのは、逆上がりという壁を越えて行った者たちだ。おまえたちはまだその壁を越えていない。これからの人生には何度も壁にぶつかることはあるだろう。おまえたちは逆上がりが出来ないが、それはチャンスだと思え。人生でぶつかる壁のひとつにおまえたちは今ぶつかっているんだ。逆上がりという壁に真剣に挑んで越えた経験は人生の財産になるはずだ。簡単に越えた者にとってはたかが逆上がりだ。だが、おまえらにとっては逆上がりを成功させることはどんな宝石でも太刀打ち出来ない価値がある。さあ、頑張ろう」
僕の目の前には一本の棒がある。鉄の棒だ。たかが鉄の棒だが、僕にとっては大きな巨人だ。逆上がりをして、この鉄の棒の上に上がったときに見える景色はどんなだろう?簡単に上がった人よりも、苦労して上がった人が見る景色のほうが素晴らしいに違いない。先生はそう言っているのだ。
僕は言った。
「先生、僕は必ず逆上がりを成功させるよ」
「僕も」
真紀君が言うと山田先生は気合を入れるように言った。
「よし、ふたりとも練習を続けよう」
結局、この授業では僕と真紀君は逆上がりを成功させることは出来なかった。
授業のあと、鉄棒の前で僕は山田先生の前に土下座した。土下座というのは大袈裟な行為に違いなかったが、このときの僕は大真面目だった。
「先生、お願いです。放課後、逆上がりの指導をしてください!」
「え?」
「僕はどうしても逆上がりを成功させたいんです」
山田先生は驚いていた。そして頷いて言った。
「わかった。一緒に頑張ろう」
山田先生は真面目な顔で真紀君を見た。
「真紀はどうする?」
真紀君は首を横に振った。
「僕はいいです。家でゲームがしたいので」
〇
この日の放課後から山田先生指導の下、僕の逆上がりの特訓が始まった。
先生は僕の背中を支えてくれた。僕は空を飛んでいるようにふわりとした感じがした。気づいたときには鉄棒の上にいた。
「先生、これって・・・」
山田先生は笑顔で頷いた。
「うん、俺の補助を使って逆上がりが出来たんだ。次は補助板だけでやるんだ。俺は手伝わない」
自分ひとりで逆上がりをしようとすると、腕が伸びてしまい、足が地面に落ちてしまった。
先生は言った。
「じゃあ、とにかく、補助板を使って何度も試してみなさい。その間、俺は職員室で溜まっている仕事をこなしてくる。そして、ここへ戻って来たら、成果を見せてくれ」
山田先生は職員室へ行ってしまった。僕は山田先生に迷惑をかけている、申し訳ないと思った。先生も働く大人であると子供の僕は思った。
山田先生は五時前には僕のいる鉄棒の所へ来てくれた。
「さあ、練習の成果を見せてくれ」
僕は補助板を駆け上がった。しかし、鉄棒の上に太ももを乗せることすら出来なかった。先生は時計を見て言った。
「もう、学校が閉まる。また、明日、頑張ろう。出来ないからと焦ることはないぞ。さあ、帰りなさい」
僕は俯いて独り家に帰った。夕日が長い影を作った。
僕はその夜、自分の部屋で腕立て伏せをした。三十回連続でやった。それを三回繰り返した。そのあと腹筋運動もやってみた。やり終わると僕は畳の上に大の字になり天井を見上げた。
「頑張るって、いいな」
そのあと僕は宿題をいつもより集中力を持ってやった。
翌日の放課後も僕は学校に残って、山田先生の指導の下、逆上がりの練習をした。補助板を使っているのに全く出来る気配はなかった。僕は山田先生に申し訳ない気がした。
「先生、職員室でやる仕事が残っているんでしょ?僕はここでひとりで頑張るから、他の仕事をやって来てよ」
山田先生は笑った。
「お、俺に気を使っているな。大人になったな。でも心配するな。俺の一番の仕事は子供に教育を施すことだ。目の前に例えば算数がわからない子がいたら、その子にわかるまで教えてあげるのが教師だ。つまり、今はおまえの逆上がりが俺の仕事では最優先事項だ」
「でもいいよ。僕はしばらくひとりでやりたいんだ」
「そうか、俺もそう言われると確かにありがたい。職員室には仕事がたくさん残っているからな。でも、俺はこうやっておまえの逆上がりの練習に付き合っていて思うんだ。教師になって良かったと」
僕は山田先生の顔を見た。先生の笑顔は優しかった。
「さ、続けよう」
僕は補助板を蹴った。でも、体は回転しなかった。山田先生は言った。
「じゃあ、俺が補助してやる。もう一度やってみなさい」
僕は補助板を駆け上がった。大きな力が僕の背中を持ち上げてくれた。そして、僕はくるりと棒の上に上がることが出来た。僕は先生の顔を見た。先生は笑顔で言った。
「その感覚を大切にしなさい」
僕は補助板を使って逆上がりに挑んだ。しかし、やっぱり腕が伸びてしまい。回転することは出来なかった。
この日は学校が閉まるまで、山田先生は付き合ってくれた。それでも僕は逆上がりが出来なかった。地面を這う蟻が見えるくらいに俯いて僕は独り下校した。
翌日、帰りの会が終わると、僕はグラウンドの鉄棒に行くつもりで校舎の昇降口で上靴から運動靴に履き替えていた。すると悟郎君とその友達が僕を遊びに誘った。
「今日、浜(はま)やんの家で、ボンバーマンの対戦大会をやろうと思うんだけど勝も来ないか?」
僕は行きたいと思った。みんなでテレビゲームをするのは僕は好きだ。でも、そのとき思った。悟郎君たちはみんな逆上がりが出来る子たちだ。登竜門をくぐった人たち。僕はまだ逆上がりが出来ていない。テレビゲームで友達と遊ぶなどしていたらみんなともっと差がついてしまう。僕にはまだ資格がない。第一、この日も鉄棒の特訓をすると山田先生と約束してあった。
「僕は行かない。みんなで楽しんでよ」
僕がそう言うと、悟郎君は訊いた。
「なんか用でもあるのか」
「うん、まあ」
「そうか、わかった。でも、おまえがいたら凄く楽しいんだけどな」
「うん、誘ってくれてありがとう」
僕たちは靴を履いて昇降口を出た。悟郎君たちは校門の方に向かったが、僕はグラウンドの方に向かった。悟郎君は僕を呼び留めた。
「勝、どこに行くんだ?」
「グラウンド」
「何をしに?」
「鉄棒だよ」
「鉄棒?」
「逆上がりの特訓なんだ」
悟郎君は感心するような顔で言った。
「そうか、おまえ、出来なかったもんな。頑張れよ」
「うん」
僕は悟郎君たちに背を向けてグラウンドの隅にある鉄棒へ向かった。
鉄棒の隅にランドセルと手提げ袋を置くと、僕はさっそく、逆上がりに挑んだ。まずは補助板なしでやってみた。腰を鉄棒に押し付けて回ったつもりだが、なぜか腕が伸びて回転出来ずに終わってしまう。やっぱり腕の筋力が足りないのだろうか。山田先生が来たので質問してみた。
「僕は腕の力が足りないのかな?」
「うん、でもそうばかりではないと思うぞ。コツを掴めば腕の力などなくとも回れるものだ」
「でも、僕は腕の力をつけたいです。僕は最近毎日腕立て伏せをしています。他に何か腕の力をつける運動を教えてください」
「う~ん、そうだな。斜め懸垂をしてみたらどうだ?」
「斜め懸垂?」
「うん、まず鉄棒を両手で握る。あ、順手でな。そしたら両足を前に突き出す。体が斜めになるだろ?そこで腕を曲げて顎が鉄棒に付くくらいに体を持ち上げるんだ。自分の体重が全部腕にかかるから相当きついはずだ」
僕はやってみた。確かにきつい。でも、僕はこれを毎日続けようと思った。逆上がりが出来ないような弱い男ではなく強い男になりたいと思った。
それ以降、僕は体を鍛えることが日課となった。もちろん、逆上がりには挑戦した。しかし、全く出来る気配はなかった。友達からの遊びの誘いも全部断って、逆上がりに集中した。羊君が言った言葉「この世には二種類の人間がいる。逆上がりを経験した人と、していない人」。僕はまだ、「していない人」だった。季節は冬になった。
体育の授業は専ら、長距離走の練習だ。二月には校内マラソン大会がある。僕は毎朝、早く学校に来ると鉄棒に向かった。体を鍛えることに快感を覚えてきた僕は、鉄棒に向かう前にグラウンドを走ることを始めた。心肺は鍛えられた。僕の体力は確実についていた。それでも逆上がりは出来なかった。
マラソン大会では、僕は十位以内に入ることが出来た。僕のそれまでの最高記録だ。やはり努力すれば結果は出る。ちなみにビリは真紀君で、ビリ2は羊君だった。ふたりとも悔しがっている様子はなかった。入学した頃から彼らは運動が出来ない子であり、勉強も出来ない子だった。いじめられがちなところもあった。僕も少しいじめた経験がある。それは負の経験であると言えるだろう。だが、その羊君は逆上がりが出来るのだ。ときどき、僕が鉄棒の所に独りでいると、羊君がやって来て、ニヤニヤして言うのだ。
「やあ、勝、まだ出来ないの?諦めたほうがいいんじゃない?」
僕は彼を突き飛ばした。ヒョロヒョロの羊君に僕は喧嘩で負けるはずはなかった。尻もちをついた羊君は言った。
「なんだ、事実を指摘されただけで暴力を振るうのかよ」
僕は拳を握り締めた。僕の腕っぷしなら羊君なんかボコボコに出来る力はある。でもそれをやったら、いつまでも子供のままだ。僕は怒りを抑えた。
羊君は立ち上がって尻に付いた砂を払って僕から遠ざかりつつ言った。
「僕は逆上がりの出来る人、君は出来ない人」
羊君はそんな言葉を残して去って行った。
僕はその冬、ほとんど友達と遊ばずに鉄棒に向かい合った。正月、近所の公園の鉄棒で練習して、出来ずに家に帰ると、おばあちゃんのいる僕の家には、親戚が集まっていて、父親と伯父さんが酒を飲んでいた。都会の市役所で働く公務員の伯父さんは笑って言った。
「勝君、鉄棒を頑張っているんだって?伯父さんにも記憶があるなぁ。諦めたらいけないよ。諦めるとは負けるということだ」
結局、逆上がりの出来ないまま、僕は五年生になった。
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僕は放課後、学校の鉄棒で練習することはやめてしまった。周りの目が気になったからだ。努力する姿はあまり人に見せるべきではないと思った。羊君のように僕をバカにする人がいることもやめた理由のひとつだ。そして一番の理由は、僕の好きな女の子で成美(なるみ)ちゃんという子が同学年にいて、五年生から同じクラスになったのだが、その子に自分の恥部を晒すことがとにかく嫌だった。僕は学校の鉄棒は使わず、家の近所にある小さな公園の鉄棒を使った。
僕は諦めてはいなかった。諦めたら負けだと思った。友達の遊びの誘いを断って半年も孤独に努力を重ねてきたのだ。今諦めたらそのすべてが無駄になってしまう。公園で練習するもうひとつの理由があってそれは山田先生に申し訳なかったからだ。僕が小学四年生の秋から翌年の春まで先生は僕の特訓に付き合ってくれた。山田先生は何度も僕に言った。「諦めたら負けだぞ」と。
僕の練習する公園は家から歩いて五分の所にあって、鉄棒がちょうど僕にぴったりのサイズだった。僕は毎日、日が暮れるまで練習した。しかし、地面を蹴った足が鉄棒に乗ることは一度もなかった。僕はイライラした。「なぜ出来ない」。迷宮の出口は逆上がりの成功のみしかなかった。諦めることは出口から出ることではなかった。諦めたら一生出口からは出られないのだと思った。
友達が減った。僕には悟郎君など遊びに誘ってくれる友達は多かったのが、いつも断るので次第に声を掛けてもらえないようになった。僕の方でも逆上がりの出来ない人間が、出来る人間と同じ空間で遊ぶことは、分を越えているような気がして億劫になっていた。
小学校も高学年になると性に目覚めてくる。僕は成美ちゃんが好きだった。彼女は男子から人気があった。つまりモテた。僕のような逆上がりすら出来ない男子が話しかけるのはやはり何だか分を越えているような気がして、僕は成美ちゃんと会話することすらほとんど出来なかった。成美ちゃんは、運動も勉強も出来る美男子の悟郎君とよく喋っていた。
ああ、逆上がりが出来ればあんなに素晴らしい世界が待っているのだなぁ、などと思って、成美ちゃんと悟郎君を遠くから眺めていた。
五年生の一年間は様々なことがあった。それらはいい思い出だったが、その背後に、一年間努力し続けた逆上がりが、今もって全く出来ないという暗部があった。逆上がりは僕にとって裏であり闇だった。努力したこと自体が暗部となっていた。では諦めればいいかというとそういうわけにもいかなかった。四年生の秋から一年半もの間、ほとんど友達の遊びの誘いを断って努力し続けたのだ。犠牲にしたものが大きい分、成功させなければ報われないと思った。
六年生になっても僕は近所の小さな公園で逆上がりの練習をした。日が暮れても外灯があったのでその光の下で鉄棒と格闘した。お母さんには夕日が沈んだら家に帰るように言われていた。あるとき、暗くなってから二時間ほど練習していたら、お母さんが公園まで僕を探しに来た。
「コラッ、勝、こんなところで何をやってるの!もうとっくに夕飯は出来ているのよ。日が沈んだのに帰らないなんて、しかも、子供がこんな暗い公園で独りで遊んでいるなんて、なにかあったらどうするの?警察に通報しようかとも思ったのよ」
お母さんは涙ぐんでいた。
僕はお母さんを心配させたことについては深く反省した。しかし、夜の公園で独り戦うという魅力も覚えていた。でも、確かに僕は小学生だった。夜の公園で独りで逆上がりの練習をするのは防犯上危険であることは頭では理解出来た。でも、僕は早く逆上がりが出来るようになりたかった。逆上がりが出来てこそ、人生にデビュー出来るのだし、デビューしたら成美ちゃんと話が出来ると思っていた。
「お母さん、僕は逆上がりが出来るようになりたいんだ。夜の公園で独りで練習するのがダメなら、どうすればいいの?お母さん付き添ってくれる?」
「それは無理ね。お母さんもいろいろやることがあるからね。じゃあ、こんなのはどう?鉄棒を買ってあげる」
「え?鉄棒を?」
僕には鉄棒を買うなどという発想はなかった。鉄棒とは学校や公園にしかないものだと思っていた。お母さんは優しい声で言った。
「うちは幸い芝生の庭があるから場所は充分あるわね」
「お母さん、ありがとう」
お母さんは家庭用の鉄棒を買ってくれた。それは学校や公園のように地面に突き刺すのではなく、ただ支えを地面に置くだけの簡単な物だった。棒の高さを調節出来た。
それ以来、僕は毎晩、窓から漏れる灯りの下で逆上がりの練習をした。
しかし、結局、小学校を卒業するまで僕は逆上がりが出来なかった。
離任式に僕は臨んだ。山田先生が他校へ異動するのだ。山田先生は壇上で挨拶した。
「君たちは小学生。大きな未来が待っている。可能性は無限大だ。若さとは何物にも替え難いものだ。君たちの若さと可能性を無駄にするようなことは絶対にないようにして欲しい。誰だって夢のひとつやふたつはあると思う。夢は絶対に諦めちゃいけない。諦めることは負けることだ。君たちは絶対に負けないで欲しい・・・」
僕はこの言葉を、「逆上がりを諦めるな」という意味に取った。
〇
僕は中学校に進学した。地元の公立中学校で、その学区内にはふたつの小学校があった。つまり、生徒の半分は知らない子だった。僕は新しい気持ちで新生活をスタートさせた。
クラスでの最初の自己紹介、僕は緊張していた。趣味と将来の夢を言えとのことだった。僕には将来の夢、つまりは就きたい職業などまだ決まっていなかった。その代わり喫緊の課題がありそれは逆上がりを成功させ青春にデビューすることだった。僕は新しい明るい気持ちで中学生活を始めたかったのに、最初のオリエンテーションで自己の暗い部分に目を向けねばならないことが辛かった。「僕の夢は逆上がりを成功させることです」などとは恥ずかしすぎて言えなかった。僕は教室の黒板の前に立ち、自己紹介をした。
「僕は竹下(たけした)勝(まさる)です。趣味は・・・」
そのとき僕の脳裏に浮かんだのは、公園で独りで逆上がりに挑んでいた自分の姿だった。趣味は鉄棒?違うだろ。僕は鉄棒が好きなわけじゃない。あれは趣味じゃない。
「僕の趣味はテレビゲームです。将来の夢は・・・」
逆上がりを成功させること?違う、そんなことのために生きているわけじゃない、その向こうに、逆上がりの向こうにある光の世界で生きていくために僕は暗い努力をしているんだ。じゃあ、将来の夢は何だ?将来の夢はありません、などと言うのは暗いだろうか?
「将来の夢は・・・えーと、えーと、結婚することです」
教室はドッと湧いた。
結婚することが夢である男の子、確かにあまり聞かない。幼い少女が、将来の夢はお嫁さん、などと言うのはある。でも、女の子だって中学生にもなれば「お嫁さんになりたい」などとは言わないだろう。もちろん結婚に憧れる人は多い。でもそれを将来の夢として語る人は少ないだろう。特にまだ若すぎる中学生では。
僕が好きだった成美ちゃんは同じ中学校に進学したが、僕とは違うクラスになった。僕は中学生になっても成美ちゃんのことが好きだった。でも、逆上がりが出来ないことを思うと、彼女に話しかけることが恐れ多いことのように思えて出来ずにいた。いや、そればかりじゃなかった。逆上がりの出来ないことは僕の友達作りにも弊害を与えた。新しい出会いがあるのに、自己紹介する度に「逆上がり」の四文字が僕を悩ませた。特に新しい女子との出会いは男子以上に緊張した。相手が瞳の奥で、「逆上がりも出来ないの?」と嘲笑しているように思えて、会話が吃ってしまい、それで笑われることが多かった。その笑いがまた僕には逆上がりの出来ないことを笑われているような気にさせた。もちろんそうではないことは頭ではわかっていた。
中学校では部活動をしなくてはならないとのことで、特にスポーツなどに興味のない僕は迷っていた。そんなとき、こんな噂を聞いた。
「真紀の奴、野球部に入るんだとよ」
真紀?真紀君?あのデブで逆上がりの出来なかった真紀君が、男子の花形スポーツの野球部に入るのか?信じられなかった。逆上がりさえ出来ないくせに野球なんか出来るわけがないじゃないか。真紀君は逆上がりから逃げた人間のはずだ。僕が放課後、猛特訓すると言ったとき、「ゲームをしたいから」と家に帰ったじゃないか。そんな根性無しが、あの練習の厳しい野球を?僕には絶対に無理だ。真紀君だってどうせすぐに辞めるだろう。辞めたら笑ってやろう。「逆上がりから逃げた奴が野球なんて無理だったんだよ」って。
僕は陸上部に入った。長距離走ならば努力次第で心肺が強くなって、そこそこ行けるんじゃないかと思ったからだ。もちろん、全国大会に出たいとかそんな大きな夢はない。選手にならなくても補欠でいい。僕は陸上で体を鍛えながら、逆上がりをなんとかものにしたいと思った。しかし、小学四年生から二年半努力しても出来なかったことが今後出来るのか不安もあった。意外なニュースもあった。僕のマドンナ成美ちゃんが陸上部に入ったのだ。これは僕にとっては本当に運がいいことだった。
しかし、成美ちゃんはサッカー部に入った悟郎君と付き合っているとの噂があった。僕はそういった噂には耳を塞ぎたかった。そのくせ、耳を塞いだはずの手は小さな声も漏らさず聞き取れるように耳に当てがって広げられていた。するとこんな噂も聞こえてきた。
「あのふたり、この前、公園のベンチでキスしてたってよ」
聞かなければよかった。僕の胸は嫉妬の嵐、台風かハリケーンかサイクロンかわからないがとにかくこの噂に沖縄のサトウキビ畑みたいに蹂躙された。逆上がりが一発で出来た悟郎君。スポーツ万能、勉強も優秀、顔も二枚目。僕には悟郎君より優れているところがあるだろうか?僕は到底、成美ちゃんと付き合える条件を満たしているとは言えなかった。所詮は逆上がりすら出来ない男なのだ。
陸上部では僕はひたすら、学校の裏にある田んぼの周囲をランニングした。一周四分程度で回れる距離だった。そのタイムを縮めるのが僕の毎日の部活動だった。短距離走を選んだ成美ちゃんとはほとんど顔を合わせなかったが、あのデブのイッちゃんとは毎日顔を合わせた。彼女は陸上部で長距離走を選んだからだ。あんなに足の遅い、太った女の子がなんで陸上部なんだろう?不思議でならなかった。で、ある日、学校裏でランニングが始まる前に訊いてみた。
「ねえ、イッちゃん。なんで君は陸上部に入ったの?」
するとイッちゃんは僕を睨んで言った。
「なんでそれをあんたに言わなきゃならないの?」
「え?なんだよ。ただ訊いただけじゃん」
「じゃあ、訊くけどあんた、なんで陸上部に入ったの?」
「それは僕の・・・」
「成美ちゃんが入ったからでしょ?」
「はぁ?」
「成美ちゃん、かわいいもんね。あたし知ってるよ。あんた、いつもいやらしい眼で成美ちゃんを見てるって。この中学のブルマ、まだ古いタイプで太ももがよく見えるもんね」
「なに言ってんだよ、おまえ。僕がいつ成美ちゃんをいやらしい眼で見た?勝手な想像するなよ。あ、そうか、モテない女の妄想か?」
「なんだと、こら、」
イッちゃんは僕の首を絞めてきた。僕は女子に掴みかかって来られるなど生まれて初めてで動揺した。幸い周囲には他の陸上部員がいたので止めに入ってくれた。イッちゃんは僕から引き離された。他の女子がイッちゃんを宥めた。
「イッちゃん、やめなよ、暴力は良くないよ。いくら相手が勝だって・・・」
僕はその声を聞き逃さなかった。
『いくら相手が勝だって・・・』
この言葉の意味は・・・別の言葉で言い換えると何になる?国語の時間だ。「いくら相手が○○だって・・・」この文章はどのようなときに使われるでしょうか?考えたくなかった。僕は小学生のときにイッちゃんをいじめた。いや、幼稚園のときからだ。太った女の子は男の子からいじめられやすい。顔も不細工だ。だから、僕はイッちゃんを下に見ていた。僕は普通の小学生でイッちゃんはいじめられているかわいそうな女の子、そんな位置づけだった。それが変わったのか?
そんなことを僕が考えていると、なぜか同じ陸上部に入った羊君がいつのまにか僕の横に立っていて言った。
「イッちゃんは逆上がりが出来る。おまえは出来ない。それだけさ」
僕は羊君の胸倉を掴んだ。
「なんだと?てめえ!」
他の陸上部員が止めに入った。
「うわっ、今度は勝だ!やめろ、やめろ!」
僕は羊君の胸倉からすぐに手を離した。僕は泣いていた。悔しくて泣いていた。僕は走り出した。誰も止めなかった。僕は荷物をまとめ、服も着替えず体操着のまま学校を出た。向かった先は自宅の近所にある公園だった。
僕は鉄棒の近くに荷物を捨てると、逆上がりをやり始めた。足で地面を蹴った。足は高く上がり、しかし、また同じ軌道を描いて降りてしまった。それを何度も繰り返した。何度繰り返しても逆上がりは出来なかった。僕は泣きながら挑戦し続けた。
「ちくしょう、ちくしょう、こんなことで・・・この程度のことで・・・」
夜になっても僕は鉄棒から離れなかった。何度も挑戦した。雨が降って来た。僕はがむしゃらだった。最後にはつるんと手が滑って、地面に尻もちをついた。そこはよく人が立つ鉄棒の下だったため水溜まりになっていた。パンツに嫌な水分が沁み込んで来た。僕は立ち上がった。不意に人影が目に入った。外灯に照らされた公園の入り口に傘を差した人物がひとり立っていた。お母さんだった。
「また、こんなところに・・・」
「おか、お母さん!」
僕は立ち上がった。お母さんは僕が幼い頃に熱を出したときに見せてくれたような優しい顔で言った。
「さあ、帰るわよ。今晩はあなたの好きなハヤシライスよ。温め直してあげるから食べなさい」
「お母さん、僕はダメな人間なのかな?」
「誰かがそう言ったの?」
「だって、僕は逆上がりが出来ないんだ」
「お母さんも出来ないわよ」
「じゃあ、ダメな遺伝子があるのかな?」
「お母さんは自分をダメだとは思わないわ」
「僕は出来ないんだ。逆上がりが。出来るようになるために、もう三年くらい苦しんできた。あと何年苦しめばいいのだろう?」
「苦しまなくてもいいのよ。諦めればいいのよ」
「諦めたら負けじゃないか。人生おしまいじゃないか」
「あら、そうなの?お母さんはそうは思わないわ。諦めてから始まるのかもしれないわよ」
「でも、どんなスポーツでも諦めたら負けじゃないか」
「人生はスポーツかしら?」
「え?」
「人生に勝ち負けがあるのかしら?」
「・・・」
「さあ、帰りましょう。ずぶ濡れね。鞄も濡らしちゃって。教科書が濡れてないかしら。さ、帰って温かいハヤシライスを食べましょう」
僕は涙混じりの雨で濡れた頬を体操着の半袖で拭った。袖がぐっしょりと濡れていたので頬は余計に濡れて泥までついた。僕は鞄を持ち上げて言った。
「お母さん、ハヤシライス三杯食べていい?」
「そのくらいのご飯は炊いてあるわよ」
「ありがとう」
僕とお母さんは暗い夜の雨の中をふたり並んで歩いた。
〇
真紀君は野球の才能があったらしい。中学二年生になるとレギュラーで四番バッターになった。三年生がいるのに、四番に抜擢されることは凄いことだ。デブで足が遅いのは変わらなくて、そういう選手のポジションはファーストになるそうだ。バッターとしては三年生に混じっても一番打率が高いらしい。あのデブの真紀君が、逆上がりの出来ない真紀君が、野球選手として大活躍?嘘だ!僕は妬んだ。
真紀君は学業の成績もグングン上がって行ったと噂で聞いた。入学当初は学年でもビリの方にいたのだが、猛勉強をして、二年生の今では学年で三十位ぐらいには入っているらしかった。二百三十人くらいいる中で三十位というのはたいしたものだ。ちなみに僕はいつも百位くらいを彷徨っていた。
真紀君について最も妬ましかったのは野球や勉強のことじゃない。それも大きな理由になるのかもしれないが、一番僕が妬ましかったのは、彼が成美ちゃんと付き合っているということだ。毎日、彼は成美ちゃんと手を繋いで家に帰る。あのデブの真紀君が、逆上がりの出来ない真紀君が、学年一の美女、成美ちゃんと手を繋いで帰っている。僕は帰る方向が同じなので、あのふたりが仲睦まじく歩いているのを後ろから見て歩かなければならないときなど胸が痒くて掻きむしりたいほどになった。そんなとき大概、隣に羊君が歩いていて、「おまえにはあんな彼女は出来ないだろう」などとニヤニヤしながら余計なことを言う。「羊、おまえもだろ!」僕はそう言い返す気力もなかった。ただ、真紀君が羨ましく、自分の嫉妬心を慰めるために、自分に言い聞かせた。「なんだ、成美ちゃんだなんて、あんな女。顔はかわいいかもしれないけど、そんなに頭は良くないだろう。そのかわいい顔も所詮田舎娘のかわいさだよ。テレビを点けりゃもっとかわいい女で溢れてら。テレビに出れば成美ちゃんなんてありふれた普通の女だよ。真紀よ、おまえはそれで天下を取ったつもりか?まだ、逆上がりが・・・」僕はゾッとした。僕はまだ逆上がりにこだわっている。真紀君は恐らくこだわっていないだろう。いや、真紀君は最初から諦めていた。僕は諦めずに練習した。小学校を卒業するまで二年半苦しんだ。そのために友達と遊ぶことも控えた。そのうち友達が減った。中学校に入ってからも時間を見つけては鉄棒に挑んだ。でも成功しなかった。僕と真紀君では逆上がりに対する思い入れが違うんだ。僕はあのイッちゃんや羊君と喧嘩した日の夜、あのお母さんが傘を差して公園まで迎えに来てくれた雨の降る夜から逆上がりを忘れることにした。あれから一年が経とうとしている。僕は真紀君に嫉妬し、彼は逆上がりが出来ないという事実を発見したとき、自分の中に潜む、逆上がりに対する執着心を自覚した。結局、逆上がりなのだ。もう、庭には家庭用の鉄棒はない。それは一年前にお母さんが捨てた。
「もう、勝にはこれは必要ないでしょう。いいわね?勝」
「うん、もう充分だよ」
そう言ったはずだった。
なぜ、この世には鉄棒などという物があるのだろう?僕の町にはどんなに小さな公園でも鉄棒はある。公園に最低限ある遊具などは滑り台、ブランコ、砂場、鉄棒、この四点セットだ。僕は逆上がりを諦めようと決めたときから、公園を避けるようになった。でも、友達と遊ぶときなどに、「よし、公園に行こうぜ」などと誰かが言うと僕は絶望に襲われるような嫌な感じになる。あの「逆上がり」という四文字が僕の背中にのしかかり、苦しんだ学校や公園の鉄棒での記憶が蘇る。これは一生続くのだろうか?この苦しみに終止符を打つ方法・・・それは、あれしかなかった。『逆上がりを成功させること』。だが、それは僕にとって時間が止まったような永遠に続くような恐ろしい景色を意味していた。
僕は中学二年生の夏休みのある暑い日の昼間、公園の鉄棒の前に立っていた。一年ぶりだった。僕は鉄棒に手を掛けた。腹を鉄棒に押し当てた。胸がドキドキし、蟀谷から冷汗が流れた。僕は呪文を唱えた。
「絶対成功させる。一発で決める。絶対成功させる。一発で決める。絶対成功させる。一発で決める。えりゃあああ」
僕は地面を蹴った。足が上がった。足は樹木の木漏れ日を受けていた。その足は軌道を描いて元通り地面に降りてしまった。体がくるっと回転して鉄棒の上に上がることは出来なかった。つまり、また失敗したのだ。
僕には一生出来ないんだ!この時間から逃れることは永遠に出来ないんだ!
僕はそれ以上、逆上がりには挑戦せず、敗残兵のように項垂れて家に帰った。
〇
僕は三年生になったが、陸上で選手にはなれなかった。長距離の選手に選ばれた部員の中に羊君がいた。その選手を決めるレースのとき、僕と羊君はいい勝負をした。最後のデッドヒートで僕は羊君に僅差で敗れ代表を逃した。女子の長距離選手の中にイッちゃんがいた。彼女は中学校に入ってとても努力していた。以前はあきらかなデブだったのが、この頃ではぽっちゃり気味という感じでデブというほどの太さではなかった。友達も多く、明るい女の子になっていた。僕はイッちゃんにも負けたと思った。
「人生に勝ち負けがあるのかしら?」
お母さんの言葉を思い出した。僕にはこの難問はまだ解けなかった。答えは「ない」というものだと容易に想像出来るのだが実感として勝ち負けがあるような気がした。難しい言葉を使うならば競争原理の資本主義には明確に勝ち負けがある。金持ちになるのが勝ちで、貧乏になるのが負けだ。でもそれは「人生」の勝ち負けじゃない、「経済」や「権力」の勝ち負けだ。ということは「人生」には勝ち負けはないのか?「スポーツ」に勝ち負けはある。試合の勝敗がまさにそれだし、僕のように選手になれなければ負けで羊君のように選手になれれば勝ちだ。僕は「スポーツ」で負けている、確かにそうだ。でもなぜだろう、「人生」でも負けているような気がするのは。真紀君は野球部で四番のレギュラーで成美ちゃんと付き合っている。彼は小学生のときはただの冴えないデブでいじめられていた。いわば「負け」ていた。それが中学生になって野球と勉強を頑張りメキメキ頭角を現して「勝ち」を手に入れた。その「勝ち」の意味には当然、成美ちゃんと付き合っていることが入っている。同級生からすれば学年一のモテ女子成美ちゃんと、いじめられていた冴えないデブの真紀君が付き合うようになるとは誰も想像しなかったろう。あきらかにこの時点で真紀君は勝ち組だ。経済でも権力でもない人生の勝ち組。
「人生に勝ち負けがあるのかしら?」
お母さんのこの言葉がもう一度思い出される。でも、僕にはそれに答える力はない。
〇
僕は市内の私立高校を受験して合格した。中堅クラスの普通高校だ。羊君も同じ高校だった。イッちゃんは市内の公立の女子高に進んだ。その高校に成美ちゃんも合格したそうだ。真紀君は地元で伝統ある名門の進学校に合格した。それは県立高校で野球部が強かった。真紀君は野球推薦ではなく勉強で入った。僕の中で真紀君はもう小学生のときの真紀君ではなかった。もうデブで冴えないなどとは言えなかった。太ってはいたが、それを悪く言うのはこちらに嫉妬があるからだと認めざるを得なかった。「あいつはエリートになったけどな、ガキの頃はデブで冴えない奴だったんだぜぇ」などと語り部のように言い触らすとしたら、僕にとってこんな屈辱はないじゃないか。
僕は高校に入り、部活動には入らず、勉強一筋で頑張ることにした。一流大学を目指すのだ。将来は世界を股にかけて働くエリートになるのだ。つまり「勝つ」のだ。そのために特に英語に力を入れた。もう一年生のときから狙う大学の学部学科と受験科目を決めていた。東京の有名私立大学をいくつも選んだ。学部は文系の学部。受験科目は、英語、国語、世界史のみだった。この三科目だけで多くの進学先の選択肢があった。英語がペラペラになって、世界で活躍したかった。その頃、都会の市役所で働く伯父さんが英語で大長編の小説『風と共に去りぬ』を読破したという話を父親から聞いたことや、その娘つまり従姉が外資系の企業に就職したという手紙がおばあちゃんの所に届いたことも僕に英語を身につけたいという強い動機に拍車をかけたのかもしれない。外資系の企業に勤めることの価値は僕にはわからなかったが、都会人である従姉には名誉なことだったみたいだ。
僕はこの十代の大事な時期、受験勉強に打ち込んだ。恋愛もなかった。勉強以外のことを考えるとあのことを考えてしまって嫌だった。あのこととは、つまり、「逆上がり」だ。
僕は高校一年生から予備校に通った。何がなんでも一流大学に行くと決めていた。予備校では模擬試験を受けた。一流大学にはD判定だった。まだ時間はあると思い、A判定目指して勉強した。二年生になるとC判定を取れるようになった。
そして、勉強ばかりして、いつのまにか三年生の夏になった。僕は噂で真紀君が高校野球の県大会の試合でテレビに出ると聞いた。真紀君の高校は準決勝まで進出していた。あと二勝で全国大会、つまり高校球児の憧れの舞台、甲子園。その試合を僕は自宅のリビングのテレビで観戦した。「夢を諦めるな」小学校の山田先生の言葉が聞こえて来るかのようだった。僕は逆上がりを思い出した。逆上がりをすぐに諦めた真紀君が今、テレビに映っている。打席に立っている。夢を追いかけている。野球場には大勢の観客がいて、応援団までいる。相手は強豪校だ。五対〇で負けている。真紀君は三振した。僕は真紀君のチームは負けるだろうと思い、テレビを消して、二階の勉強部屋へ移動した。しかし、現在、野球場で、あの華やかな舞台で真紀君が夢を追いかけて頑張っていると思うと勉強に集中出来なくなった。もうコールドで負けているだろうかと僕は想像しながら階下へ降りてリビングのテレビを点けた。七対五で負けていた。九回裏、ツーアウト、ランナー二塁、打席には真紀君が立っていた。真紀君がアウトになればそこで試合終了、彼のチームの負けだ。僕は食い入るようにテレビを見た。実況は言う。
「「さあ、打席には先ほどホームランを打っている四番、岡村(おかむら)真紀(まき)。さあ、ここでホームランが出れば同点、ホームランでなくとも一打出て二塁ランナーが帰れば一点差に詰め寄ることが出来ます。続く五番にはこれも強打者の島田(しまだ)が続きます。これは先が読めません。守る側はあとひとつアウトを取れば試合終了、決勝に駒を進めることが出来ます。さあ、ピッチャー、セットポジションから投げました。ボール。カウントはフルカウントとなりました」」
僕は手に汗を握っていた。今、県内で高校野球を見ている人が皆、真紀君の打席に注目している。打つかアウトか、僕の瞳は涙で潤んでいた。「真紀、逆上がりを諦めたおまえが、今、大舞台で勝負を諦めずに打席に立っている」
「「打った!ファウルボール。バッター粘ります。四番、岡村真紀。諦めません」」
僕はこんなに野球を感動して見たことはなかった。
「「ピッチャー投げた!打った!レフト頭上を越えた!入るか、入るか、壁に跳ね返った。レフト、ボールを拾い二塁へ送球、打った岡村は二塁ストップ。この間に二塁ランナーはホームに帰り一点入りました。これで七対六。さあ、まだわかりません!」」
僕は我がことのように喜び震えて、涙が溢れ頬を伝った。テレビ画面が滲んで見えた。「真紀、凄いよ、おまえは」
しかし、試合は次のバッターが二塁ゴロに倒れて試合終了、真紀君のチームは敗退した。僕は真紀君が泣いているだろうと思って試合後のテレビを見ていた。真紀君は爽やかに笑っていた。負けたのに満足しているかのようだった。泣いているチームメイトを慰める余裕さえあった。なぜだ。僕にはわからなかった。負けたのが自分のせいじゃないからか?自分は大活躍し、他の選手のせいで負けたからか?僕はそんな風に考えてしまう自分が嫌だった。僕はテレビを消した。
僕は感動していて、人生のあらゆることが頭の中を廻り、その日は勉強に手がつかなかった。
諦めること、諦めないこと。勝ち、負け。
僕は一流大学を諦めたくなかった。高校三年生の夏のこの時点で僕は模擬試験でまだC判定だった。狙いの大学の偏差値を少し下げれば充分合格出来る成績だった。だが、それは一流ではなかった。一流大学でなければ敗北だと思った。自分にそう言い聞かせていた。
秋になり冬になっても僕の成績はそれ以上上がらなかった。
そして僕はいくつもの私立大学を受験した。一流大学は全て落ちた。僕が二流だと思っていた滑り止めの大学には合格した。でも、一流でなければ嫌だというのが主義だったので一年浪人することにした。
ちなみに真紀君は地元の国立大学へ現役で進学したそうだ。野球推薦ではなくきちんと試験を受けたらしい。もう、僕の中に彼に対する嫉妬心はなかった。ただ、凄い奴だと感心するばかりだった。
それから僕は猛勉強し、一年後には結局、一流大学には合格出来ず、二流の大学に行くことになった。東京で独り暮らしを始めるという新生活への期待がある一方、二流大学に行くという敗北感が僕の気を塞いだ。
〇
僕は大学生になっても大学生活を楽しんでいるとは言えなかった。僕の性格は偏狭になっていて友達が上手く作れなかった。なぜなら、二流大学にいるという意識から、何をやっても負けている気がして、二流の友達を作ることが屈辱だった。自分は二流ではない、こんなやつらとは違う、などと思っていた。そうは言っても、どこに違いがあるのか、はっきりと意識出来なかった。そこで英語が出来る人になろうと思った。つまり英語の出来る人と出来ない人と明確に人間を二種類に分けて考え、自分は出来る方になろうと思った。
英語はかつてのヨーロッパのラテン語のように、現代では世界の上流社会の公用語になっている。僕は上流社会に入りたかった。僕はどうしても英会話を覚えたかったので、大学で英会話の授業を取ったが人と会話をするのが怖かったせいか、英語力は伸び悩んでいた。人と喋るのが苦手な人が外国語で上手く会話出来ないのは当然だ。それでも一応NHKのラジオ英会話を毎日聴き始めたが、一生かけても英語が話せるというレベルに届くかどうか、つまり英語が出来る人になれるかどうかは疑問だった。その疑問は常に僕を不安にさせた。英語が出来なければ、二流大学に通う僕は完全な敗者だ。だから、英語は諦めたくなかった。アメリカのメジャーリーグに渡った野球選手が英語のインタビューに通訳を介して日本語で答えているのを見て、「情けねえ奴」と僕は嘲り笑った。しかし、そう人を見下す自分自身が英語の出来ない人間だった。僕は負けたくなかった。負けないために英語の勉強に励んだ。
誰と勝負をしているのだろう?
僕は疲れていた。
夏休みに実家に帰ると、伯父さんが来ていた。今年で六十六歳になる人で、東京の私立大学の法学部を出て、首都圏にある政令指定都市の市役所に勤めてきた人だ。あまり出世出来なかったそうだが、公務員だから生活は安定していたようだ。おばあちゃんの言うには、伯父さんは大学時代司法試験を受けない理由として、「僕に死刑の判決は出せないよ」と言っていたそうだ。おばあちゃんは、「あの子は優しいんだよ」といつも言っていた。僕はいつもそれを聞くたびに「ほんとかな?司法試験に合格する自信がなかっただけじゃないかな?あるいは、優しいというより勇気がなかっただけじゃないかな?」と思った。伯父さんは大学を卒業すると自動車の販売員をしていたそうだが、成績がよくなく、その仕事は向いていないと思い、公務員となったらしい。僕は公務員のほとんどは保守主義だと思っている。人生の勝負から逃げているというか・・・。公務員の給料がどう決まるのか、僕には理解出来ない。
ところで、この伯父さんの娘、つまり僕の従姉、外資系の企業に入ったと言っていた人が、英会話教室の講師をしていたイギリス人と結婚するとのことだった。
夕食の席で伯父さんは言った。
「そうか、勝君は英語の勉強をしているのか。え?英文科だっけ?」
「哲学科です」
「英語で哲学書を読むのか、凄いなぁ」
「いえ、まだそこまでは行っていません。伯父さんは仕事で英語を使いましたか?」
「まったく使わなかったね。まだ外国に行ったこともない。外国人の知り合いもいなかった。英語を使う機会がなかった。地方公務員だからね。第一、伯父さんは英語が出来なかった。でも現在、娘がイギリス人と結婚することが決まったからね。孫と英語で話すのは伯父さんの夢だ。娘は孫に日本語も教えるというが・・・。そうだ、孫が生まれたら、連れて来るよ」
僕は英語に執着することに疲れていた。しかし、英語を身につければ将来の可能性が広がることが、僕を英語にしがみつかせていた。
四年後、伯父さんが娘夫婦と孫を連れて来た。
僕は大学を卒業してから、海外旅行をたくさんしたくて、フリーターになっていた。
伯父さんは言った。
「勝君はフリーターなんだって?なんでまた?」
「海外旅行をして見聞を広めたいんです」
「どこに行ったんだい?」
「まだ、お母さんとシンガポールに一度行っただけです」
「そうか、シンガポールか。伯父さんはまだ、外国に行ったことはないな。ジョンはイギリス人だから、向こうのご両親に挨拶に行かなければならないな、と自分は思っているよ」
「ぜひ来てください」
と、ジョンという従姉の夫は日本語で言った。すると青い眼をした子供のジョージ君が言った。
「ぜひ来てください」
おばあちゃんは喜んだ。
「あら、日本語を話すのね」
従姉は笑った。
「バイリンガルに育てようと思っています」
僕は、「このジョージ君に負けるだろう」と思った。
アルバイトの給料は安く、努力した英語もおぼつかなく、一年に一回、添乗員付きの団体旅行で海外に行く程度だった。英語を使う機会など、ツアーバスが立ち寄る免税店でお土産を買うときぐらいのものだった。
三十歳を目前にしても僕は定職に就かず、経済的にも精神的にも親から自立しているとは言えなかった。偏狭になっていた僕には友達もほとんどいなくて、もちろん彼女などいるはずはなかった。彼女にするなら美人で高学歴で英語が出来る社会的地位の高い女性がよかった。僕自身が高学歴でも英語が出来るわけでも社会的地位が高いわけでもないということを措いたとしても、そのような女性が目の前に現れたとして話しかけることは出来なかったろう。僕はほとんど対人恐怖症になっていたから。
とにかく僕は、ひとりで外国旅行のツアーに参加した。訪れた外国は十か国のみだった。何のためのフリーターなのかわからなかった。
おばあちゃんが死んだ。百歳だった。
葬式に伯父夫婦は来たが、その娘の親子は来なかった。イギリスにいたからだ。
火葬場で待つ間、イギリスの話題になった。
「伯父さんはもうイギリスに行ったんですか?」
「いや、まだだ。まだ、日本を出たことがない。飛行機さえ乗ったことはないよ」
「行く予定はあるんですか?」
「まだ、いつと決めたわけではないけど、行くよ。そのために英語を勉強しているよ。というよりね、伯父さんは昔から英語の小説を読んで来たんだよ。辞書を引きながらね、毎日数ページずつ読むんだ。大学を卒業した頃から続けて来た。その頃から変わらないんだけど、伯父さんは英語を頭の中で日本語に変換しながら読んでいる。英語でそのまま理解することは出来ないね。まあ、進歩はないが、継続は力なりというからね」
「そういえば『風と共に去りぬ』を英語で読破したと昔聞きましたけど、どのくらい時間がかかったんですか?」
「八年かな?」
「八年!」
「まあ、仕事もあったからね。時間を見つけて少しずつ読んだんだ。今はもっと短い、なるべく読みやすい簡単な英文の小説を読んでいるよ」
「なぜ、わざわざ、英語で読むんですか」
「そりゃイギリスにいる孫と英語で話をしたいからだよ。いや、本当はね、そもそもの動機を言うとね、中学校、高校と六年間も英語を勉強したのに英語が出来ないなんて悔しいじゃないか。負けたくないじゃないか。諦めたら負けだからね」
僕は口を噤んだ。十代の六年間の努力を無駄にしないために、六十年以上も、ずっと努力を続けて来たと言うのか?日本から出ることもなく、八十歳近くになっても身につかないのに、まだ諦めていないと言うのか?まだ負けていないと言うのか?十代のコンプレックスが一生続くのか?
恐ろしいと思った。
〇
その後、風の噂で聞いた。真紀君は大学卒業後、地元で公務員になったそうだ。そして、職場で知り合った女性と結婚して子供を儲けたらしい。もうマイホームを建てて幸せな家庭を築いているという。
(了)
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