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ソロ登山は惨めだ。だが、そこがいい

私は独り、山の中にいた。
八ヶ岳、天狗岳の北、黒百合ヒュッテの前の丸太の椅子の上である。
テーブルの上で、ソーセージを茹でている。


私は生まれて初めて、屋外でソーセージを茹でている。
美味そうだな、と思い、湯の中のソーセージを見つめている。
すでにアルファ米には湯を注ぎ、蓋を閉じて待っている状態だ。


あとはソーセージを茹で、その茹で汁にインスタントの味噌汁を入れようと思っている。
それとツナ缶もおかずにするつもりだ。
ソーセージを味噌汁の具にするなど私の母はやらない。従って初めての味となる。
アルファ米が出来上がるのに十五分かかる。
その間、ずっとソーセージを茹でる。
沸いた湯の中でソーセージが時々爆ぜる。私はそれをじっと見ている。
そして、アルファ米にお湯を注いで十三分経った頃、ソーセージの茹で汁にインスタントの味噌汁を入れて、バーナーの火を止め、テーブルの板の上に置く。
それからアルファ米を器に移す。
そして、ツナ缶を開けて、それらを並べた。
これが私の夕飯である。


私はじっとそれらを見ていた。
「惨めだな」
客観的に見てひとりぼっちで、山小屋の前で自分の夕食の準備をする。しかも、ソーセージの入った味噌汁ごときに舌なめずりをしている自分が惨めに思えた。
そんなとき、私は先月登った霧の赤岳山頂でのことを思い出した。
あそこでも私はひとりぼっちで、震えながらコーヒーを飲んでいた。
惨めだった。
だが、そこがいいとあのとき思った。
「ここでこうしているのは世界で俺ひとりだ。惨めだが特別だ。赤岳山頂を独占しているのはこの俺だ」
今、他に誰もいない黒百合ヒュッテの前で私は夕食に臨んでいる。
私はその惨めな環境の中で味噌汁の中にあるソーセージを囓った。


ポキッと音が鳴り、肉汁が口の中に広がった。
惨めさを感じさせていた客観はどこかに行き、私の舌は素直に美味いと感じていた。
そして、大学時代の一人暮らしをしていた頃のことを思い出した。
あの頃は毎日自炊していた。独りで食べていたが、満足できた。
あのアパートの部屋が私の王国だった。
今、その王国がこの山の中にある、それだけの違いだ。
この惨めさは寂しいのとも違った。
好んで来たのだ。趣味としてこんなことをやっているのだ。
惨め。
ミゼラブル。
『レ・ミゼラブル』
私の大好きな小説の題名だ。
惨めである物語ほど面白いのではないか?
私は今、面白い物語の渦中にいると思い、ツナ缶を食べ、ごはんを食べて、味噌汁を飲んだ。
どれも美味だった。
惨めさが逆に山メシを美味くした。
独りということを客観的に見れば惨めだが、逆に独りだけで食べるメシは自分とメシの一対一の関係となり、味覚をフルに使って食べることができた。誰かと喋りながらのメシではなかった。みんなで騒ぎながら食べるメシが美味いと言う者もあるだろうが、独りで食べるメシの美味さはやはりあるような気がした。
食事を終えると、私はテントに入った。


まだ五時半を過ぎたばかりだが、霧が出ていた。
日没は見られそうもなかった。
私はテントの中ですることもなく、ザックから大学ノートを取り出して、床に蹲るようにして、ボールペンで文章を書き始めた。文章を書くことは、下界での私の空いた時間の過ごし方と同じだった。
山の中で書く文章は、下界の環境の中で書くのとは違った。
何が違うのか私にはわからなかった。
もしかしたら、遠くの誰かと繋がりたいために書いているのかも知れなかった。
書くことは惨めではなかった。
書いていると客観はどこかに消えていた。
ただ、ノートの紙面には、その日入山した白駒池からニュウという山に登り、中山峠を通って、この黒百合ヒュッテまで来た。その楽しさだけがあった。
そして、書くのをやめると、また独りに戻った。
外はまだ日が沈んでいない。
ただ、近くに張ったもう一組の五十代くらいの夫婦者の話す声だけが聞こえた。
私はただ、マットの上に座り、まるで座禅を強いられているかのような気持ちになった。
私には座禅の趣味などなく、心を無にするよりは、何かに没頭したい思いだった。
テントのフライシートに雨粒が当たる音が聞こえ始めた。
私は夕方七時過ぎまで待って、シュラフに入った。
雨音のためにテントに水が染みこまないか、そんなことばかりを考えていたが、いつのまにか眠りに入った。
 
朝、三時半まで寝た。
三時半が朝と言えるかどうか知らないが、私は東天狗岳から四時半の御来光を見るならば、三時半には出発しなければならないことはわかっていた。
しかし、先月、二時台にテントを出て赤岳に登った過酷な経験が闇の中を登ることを躊躇わせた。だから、山頂での御来光は諦め、朝食を摂って四時頃出発し、登山道途中からの御来光を拝むことにした。天気は良かった。
東天狗岳に登るルートは東ルートと西ルートがあるが、私は東の空が見えるであろう崖っぷちを行く東ルートを選んだ。
やはり、登山中に東の空が赤くなってきた。


私は途中の開けた場所で足を止めた。
東の空は赤みを強くしていった。


東天狗岳の山頂は霧がかかっていた。
もしかしたら、山頂からでは御来光は拝めないかも知れないと思った。
私はただ、赤く染まっていく東の空を立ったまま見つめていた。
そのとき私は何を思っていたか、まるで覚えていない。
ただ、何も思わず、朝日が昇るのを眺めていただけなのかも知れない。

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