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小説『待合室』

ぼくは待合室で待っていた。
整形外科の待合室だ。

ぼくは右足の踵を骨折して、この地元の整形外科に通って二週間になる。ギプスで固定して松葉杖でひょこひょこと待合室に入った。この医院の前までは母親に車で送ってもらった。車から降りると独りでひょこひょこだ。

平日の午前の待合室は混んでいた。ソファが壁際に「く」の字型にあり、四角な待合室の中央に長椅子がふたつ背凭れを背中合わせにして置いてあった。

年寄りが多かったが、若い人もいた。年寄りの中にはここが自分たちのサロンであるかのように世間話をする人もいた。それ以外の人はたいてい黙っていた。書棚がありマンガが並んでいた。若い人はそれを読んでいた。

ちなみにぼくは二十七歳だが、マンガを読む趣味はなかった。スポーツ新聞も置いてあって、中年の男性はそれを読んでいた。ぼくはソファに座り、見るともなしに壁にかかった時計を見つめていた。午前十時。

ぼくは時計に飽きると他の客を観察し始めた。全部で二十人、いや、十五人か、数を数えるのは面倒だった。そんなことに関心はなかった。というか、ぼくの心臓はそれどころではなかった。

左前方の壁際のソファに知っている顔があったからだ。それは中学時代のクラスメイトの男だった。
彼は作業服を着ていた。ぼくのようにギプスをしているわけではないから骨折ではないだろう。
 

中学時代、ぼくと彼とは仲が悪いわけではなかった。普通に話す相手だった。
「よう、中澤!」
と、ぼくは声を掛けたい衝動に駆られた。だが、ぼくはそうしなかった。怖かったからだ。彼は中卒で就職し、悪い仲間がいると予想された。彼の尻には入れ墨があることを知っていたからだ。その入れ墨は成人式の日の夜の宴会で、宴たけなわの頃、入れ墨自慢大会みたいな雰囲気が一部で起こり、そのときぼくはそれを見た。
 
ぼくは彼が嫌いではなかった。
悪いやつではなかった。
だが、その人間関係を怖れた。入れ墨は日本ではヤクザのするものとされている。だから、大衆浴場などでは、「入れ墨のある方は入浴お断りいたします」と入り口に貼り紙がしてある。
「よう、中澤!」
「おう、大橋!久しぶりだなぁ。元気か?」
「元気じゃねえから、ここにいるんだろ?まあ、気持ちは元気だ。でも、足がこの様だ」
「骨折かぁ。大変だなぁ」
「おまえはどうしたんだ?」
「腰痛だよ」
「腰痛か。仕事でか?」
「まあな。ところでおまえは結婚したのか?」
「え?いや、まだだ」
「はは、俺もだよ。どうだ、今度、飲まねえか」
となるから、「よう、中澤!」とぼくは言わない。酒を飲む約束だけして別れることは現代においてまずない。電話番号を交換するだろう。それが怖い。


今は二月下旬。今月の頭に国家試験を受けた。社会福祉士だ。
社会福祉士とは福祉の仕事をするのだが、何をする仕事か、と訊かれてもぼくにはまだ答えることはできない。かなり大雑把に言うと、福祉に関する相談援助をする仕事だ。この説明でわからない人は多いと思うから、各自、PCやスマホで調べて欲しい。
その受験資格を得るためには、二年間、福祉系の大学で通信教育を受けねばならなかった。
ぼくはすでに四年制の大学を出ていたから、二年間通信教育を受けるだけで、受験資格が得られた。
正確にはまだ卒業していなくて、卒業見込みということで国家試験を受けることができた。結果はまだ来ない。
 
通信教育の中で、二年目の夏に実習を受けねばならなかった。ぼくは地元の市町村社会福祉協議会を実習先に選んだ。家から通える距離の実習施設は他に適当なものがなかったからだ。もちろん、他にも選んだ理由があり、それは地元の福祉環境を知りたいからというものだった。
 
実習の初日に事前学習の成果と実習の目標を発表する会があった。ぼくは職員たちの前で言った。
「ぼくはこの地元で、ひきこもっている人、閉じこもっている人の社会参加を促す仕事をしたいです」
 
実習で外回りについていくことがあり、ぼくは四十代の女性職員の運転する車の助手席に座り質問した。
「地域福祉の教科書には、『住み慣れた地域で』という言葉が頻回に出てくるけど、憧れた別の町で住みたい人もいますよね?」
女性職員は答えた。
「あー、そうね。でも、私は住み慣れた地元から離れたくないな」
「地域福祉では、隣近所の結びつきを強くしようという方向に向かっているけど、近所には嫌な人がいる場合もあるじゃないですか。それでも近所づきあいしなさいっていうのは、おかしいと思うんですけど」
「あー、そうね。でも、そういう人間関係の問題を解決していくのも福祉じゃない?」
ぼくは答えられなかった。


ぼくは今、整形外科の待合室にいる。左前方の壁際のソファに中学時代のクラスメイトの男がいる。中卒で尻に入れ墨のある男だ。
 
ぼくは待っている。
彼も待っている。

(了)

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