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【小説】統合失調症のお兄ちゃんは世界一の夢を見る

 

1,キャッチボール


 
僕には五歳上のお兄ちゃんがいる。
お兄ちゃんは野球が好きで、とても上手で、よく僕とキャッチボールをしてくれた。お兄ちゃんの投げる球は正確に僕の胸に飛んで来た。お兄ちゃんは中学一年生で上級生の試合に一番ショートで出ていたから相当なものだったと思う。お兄ちゃんはいつも「世界一の野球選手になるんだ」と言っていた。
でも、中学二年生の夏くらいから、お兄ちゃんの投げるボールが変になった。変な回転が掛かっていて、コントロールも乱れていた。しばらくするとお兄ちゃんは僕とキャッチボールしてくれなくなった。お兄ちゃんはレギュラーにもなれず、ベンチを温めるようになった。ときどき、代打で出ることはあったが、ほとんど三振だった。
のちにお兄ちゃんが語ったところによると、お兄ちゃんはこの頃、イップスに罹っていたのだと言う。イップスとは野球やゴルフ、卓球など手先を使うスポーツで体が思うように動かなくなる精神の病気だった。
お兄ちゃんが今後、キャッチボールをしてくれないと思うと、僕は寂しく悲しかった。
 
 

2, マンガ家志望


 
お兄ちゃんは、中学三年生の夏休みくらいから「マンガ家を目指す」と言い始めた。「日本はマンガ大国だ。日本一のマンガ家になれれば、それは世界一のマンガ家だ」お兄ちゃんはそう言っていた。お兄ちゃんはノートに描いたマンガを見せてくれた。画は下手だったけど、面白いかどうかは別として、アイデアが豊富であることはわかった。僕もマンガを描いてみた。お兄ちゃんは僕の画を見て、「上手いな」と言った。僕は嬉しかった。お兄ちゃんは頭が良く、高校は地元の有名進学校に進んだ。僕はとてもそんな優秀な高校には行けそうになかった。ただ、僕には絵の才能があった。それはお兄ちゃんにはないものだった。でも、やっぱり頭がいい方がいい。僕はお兄ちゃんに対してコンプレックスを持っていた。
お兄ちゃんは高校に入ると野球部に入った。僕は驚いた。え、野球?やっぱり好きなんだな、そう思った。でも、お兄ちゃんは試合に出してもらえず、一年生の終わりに野球部を辞めてしまった。
お兄ちゃんは野球部を辞めたら山岳部に入った。僕はそれを外で遊ぶのが好きだったお兄ちゃんらしいと思った。
 
 

3, 発病


 
お兄ちゃんは高校二年生になると、家で映画のビデオを見まくっていた。古い名作映画を何度も繰り返し見ていた。「映画のストーリーのパターンを頭に叩き込む」と言っていた。つまり、それもマンガ家で世界一になるためだったのだろう。でも、僕から見るとお兄ちゃんは、以前のお兄ちゃんではなく、活気のない幽霊みたいになっていくような気がした。そして、秋にはお兄ちゃんは山岳部を辞めて帰宅部になり、今まで以上に映画にはまり込んだ。そして、三年生になるのを前にして、お兄ちゃんは三年生でやる文化祭のクラスの演劇のシナリオ担当に立候補したと言っていた。お兄ちゃんは正月返上でシナリオを書くため机に向かった。「世界一への第一歩だ」と言っていた。でもそれはお兄ちゃんにとって破滅の前触れだった。お兄ちゃんの書いたシナリオはクラスメイトに受け入れられず。シナリオ担当の座から降ろされてしまった。お兄ちゃんは頭を抱えて言っていた。「こんなはずはない。こんなはずはない。俺は世界一の作家になる人間だぞ。こんなところで、こんなところで」。それ以降、お兄ちゃんは落ち着きがなく家の中を歩き回ったり、夜中に散歩に出かけたり、部屋で独り言を言っていたりしておかしくなってしまった。今思えば、このときお兄ちゃんは統合失調症を発病していたのだ。
 
 

4, 精神科の初診を受けるまで


 
お兄ちゃんは大学受験に失敗し、予備校に通い始めた。その一年間は、お兄ちゃんは常に勉強していたような気がする。そうだ、文字通り常に。つまり食事中なども英単語を呟いているような有様だった。受験ノイローゼの状態にわざとなっているように僕には思えた。そこまでして大学に行きたいのか?僕の出来が悪い分、親の期待がかかっていたからだろう。お兄ちゃんは一流の大学しか眼中にないようだった。
お兄ちゃんは一年間の浪人を終えて、東京の私立大学に進学した。僕から見たら一流大学ですごいと思うのだが、お兄ちゃんはその大学に不満足だったらしい。とにかくお兄ちゃんは上京し一人暮らしを始めた。
僕も高校受験を考える頃になり、頭の悪い僕は、絵の才能を生かして、私立の美術デザイン科を受けることにした。ほとんど実技で行けそうだと思ったからだ。
お兄ちゃんは大学に入って何をしていたかは知らない。でも、どうやら、マンガ家はまだ目指しているようだった。それと哲学科だったため、帰省すると難しい言葉を交えてよくわからない理屈を語った。お兄ちゃんは頭がいいんだ、僕は単純にそう思った。
大学一年の春にお兄ちゃんが帰省したとき、お兄ちゃんは興奮していた。
「マンガの出版社に原稿を持ち込んだ。どこの出版社でも、画が下手過ぎるとか言われた。あいつら見る目がないよ。見てよ、お父さん、これが僕の描いた作品だ」
お父さんはお兄ちゃんのマンガを見て喜んでいた。僕も読んでみた。思想的なことが描かれてあるのだが、僕にはわからなかった。でも、画が下手であることは僕にもわかった。
翌年、お兄ちゃんは人生に絶望し、実家に帰ってきた。泣きながら親に訴えた。
「僕はもう駄目だ、精神病だ。精神病院に連れてってくれ。苦しい。頭が締め付けられる。こんな苦しい人生は嫌だ。脳の手術でも何でも受ける。楽になりたい」
翌日。お兄ちゃんは精神科を受診した。飲み薬を渡されただけだったらしい。お母さんは、お兄ちゃんが一人暮らしをしていた東京のアパートを片付けに行った。
 
 

5, お兄ちゃんの療養


 
僕は高校の美術デザイン科に通っていた。家に帰るとお兄ちゃんがパジャマ姿でいた。お兄ちゃんは、一日中家の中にいたらしい。ロッキングチェアに座ったり、芝生の庭に出したキャンプ用の椅子に座って空を眺めたりしていた。
ある日、お兄ちゃんが言った。
「おい、油絵の描き方を教えてくれ」
僕は美術デザイン科で油絵を習っていたので、その道具の使い方を教えた。それからお兄ちゃんは油絵を描きまくった。上手くはなかったが、迫力のある絵だと思った。お兄ちゃんは、「世界一の画家になる」と言っていた。どうしても世界一になりたいらしかった。
この頃のお兄ちゃんとはよくテレビを一緒に見た。くだらないコント番組などを見てふたりで笑い転げた。それと忘れられないのは、プロ野球中継だ。毎日、巨人戦を見て、四番がホームランを打つか打たないかで賭けをするのだ。打つ方に賭けてもし打ったら、打たないほうに賭けた者が近所の自販機で缶コーヒーを買ってくる。もし、二本以上打ったら、その数だけ買わなければならない。もちろん打たなければ打つ方に賭けた者が缶コーヒーを買いに行く。しかし、打たない日がほとんどだった。じゃんけんでどちらが先に選ぶかを決めた。勝てばたいてい打たないほうに賭けた。しかし、ときどき打つことがあったので、四番の打席になると僕たちは大いに盛り上がった。
ところで僕は絵が上手かったが、美術デザイン科には僕などより絵が上手い人はたくさんいたので、僕は画家などになれるわけがないと思い、美容師を目指して東京の美容学校に行くことにした。美容師ならば僕の手先の器用さを活かせるし、そもそも画家みたいにカンバスに独りで向かう生活よりは、お客さんと話しながら仕事をする美容師などのほうが人生としてはいいような気がしたのだ。僕は東京で一人暮らしを始めることになった。すると、お兄ちゃんが休学していた大学に復学するということで、新幹線で通うから、週に二泊僕の部屋に泊まりたいと言った。僕はお兄ちゃんが嫌いではなかったが、やっぱり、一人暮らしができると思っていたところにまだ縛りができたような気がしてあまりいい気はしなかった。お兄ちゃんはワンルームマンションの僕の部屋ではたいてい本を読んでいた。僕はある夜シャワーを浴びてから、お兄ちゃんから見えるように、浴室から片足を出して言った。
「ルパーン♡」
お兄ちゃんは言った。
「もっと、セクシーに!」
「ルパ~ン♡」
「もっと!」
「ルパハ~ン♡」
「もっと!」
「ルプハ~ン♡」
くだらないやり取りだ。
週に二泊お兄ちゃんが来るという生活は一年で終わった。お兄ちゃんは一年で大学を卒業したからだ。精神病なのに大学を卒業できるって、どんな頭を持っているのだろう?僕には理解できなかった。
お兄ちゃんは大学を卒業すると、しばらく療養し、その後、パートの仕事に就いたようだった。
僕は美容学校を卒業すると、一年間就職浪人した。一流の店で働きたかったため、選択肢が狭かったのだ。だから、美容学校に通っていたときからバイトをしていた飲食店でバイトを続けた。そして、一年後希望の美容室が見つかり採用された。
 
 

6, お兄ちゃんの夢


 
お兄ちゃんは夢を諦めていなかった。マンガ家になるとか画家になるとか変遷があった末、絵の才能はないと悟り、小説家を目指すようになったらしい。とにかく世界一になることがお兄ちゃんの目標だった。それは狂気に近かったが、いや、ほぼ狂気だったが、その夢がお兄ちゃんを支えていることはわかっていたので、僕にはそれを否定することはできなかった。
お兄ちゃんは肉体労働をしながら小説を書いていた。でもなかなか芽が出ないようだった。
一方僕は、美容師として確実にスキルアップしていた。そして、二十代後半で、カットとカラーのコンテストで銀賞を獲得した。これは僕の自慢であり誇りだ。お兄ちゃんも純粋に喜んでくれて言った。
「次は兄ちゃんの番だな」
それからもお兄ちゃんは小説を書き続けたらしい。そして、三十代の半ばで介護士になった。それ以降も小説を書いていた。
僕はいつまでも芽が出ない病気のお兄ちゃんに同情していた。彼女もいそうにないし、友達も少なそうだ。あれが人生か?僕はお兄ちゃんのようにはなりたくなかった。
そんなふうに考えていたある日、お兄ちゃんからLINEが届いた。
「新潮新人賞の一次選考通過した」
それがすごいのかどうか知らない僕はとりあえず返信した。
「おめでとう」
あとで調べると、新潮新人賞とは純文学の五大新人賞のひとつであり、芥川賞にも選ばれる可能性のある賞だと知った。その一次選考とは約二千通の中の五十通くらいが通過するものだと知った。世界一にはまだ遠いが、お兄ちゃんの作品が誰かに認められたのは確かなので僕は嬉しかった。
 
 

エピローグ


 
お兄ちゃんは四十歳になっても独身で小説家を目指している。世界一の作家になると公言している。それが病気の症状なのか、それとも健全な夢であるのかわからない。ただ、僕はお兄ちゃんが中学生の頃から一貫して世界一を目指しているのはすごいと思っている。僕なんか世界一の美容師になれるなんて思っていない。正直、銀賞を貰えたことも誇りには違いないけど、その結果には自分自身驚いていた。お兄ちゃんははっきりと世界一を目差している。それはもう病気というより生き様になっている。僕はお兄ちゃんにその生き様を貫いて欲しいと思う。そして、夢を追いかけながら幸せに暮らせる結婚相手を見つけて欲しいと思う。お兄ちゃんが小説家になって、作品が売れて、ともに喜ぶのは僕ではなくその人であるべきだと思うから。(了)

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