無知の知を知る
昨日の昼頃のことだったろうか。私は自分の無知の知を知り、若い頃の目標を達成していたことに気づいた。というのも、私の職場は介護現場で、老人ホームなのだが、そこの食堂では、食事の時間以外はいつもテレビがついている。そのテレビの報道で、「キンプリの○○が退所した」みたいな情報が流れたらしかった。そのとき、三十歳ぐらいの女性介護職員が、「へ~そうなんだ。あたし、知らなかった~」と言ったのに対して、四十代後半くらいの女性看護職員が、「え?○○さん、知らなかったんですか?それ、やばいですよ」と言った。私は「キンプリ」というのがジャニーズのアイドルグループで「キング&プリンス」の略であるくらいの認識しかなく、そのメンバーの顔も名前も人数も知らなかった。だから、彼女の言った「やばい」の意味がわからなかった。いや、頭ではわかっていた。私は高校に入学した頃、アイドルとか歌手とか芸能人の知識に疎く、知らないことは「やばい」恥ずかしいことだと思い、テレビを見て一生懸命勉強した。しかし、途中から芸能人の名前なんか知らなくてもいい、知的に生きたい、と思うようになった。大学生になると独り暮らしの部屋にはテレビを置かなかった。若者文化から抜け出したいと思いテレビではなく文学や哲学の本をたくさん読むように心がけた。テレビが人間を平凡化し大衆化し画一化し愚かにしつまらないものにするのだと思った。しかし、私は若く、流行の情報には敏感になっていた。そのくせ、自分の青春はバラ色ではなかった。芸能人の恋愛事情は気になるが、自分の恋愛事情が疎かになっていた。つまり、自分の青春が疎かになっていた。私は自分の青春自分の人生を生きたいと思った。芸能人の恋愛などどうでもよかった。それでもそういう情報に一度敏感になると、そちらに耳を立てるようになってしまうものだ。そうかといって、逆に文学や哲学に敏感になることも、同じようなものかもしれないと四十代になった最近では思っている。「キンプリ」を知らないことは恥ずかしいことではないが、『ハムレット』を読んだことがないのは恥ずかしいことだ、というのもまたおかしなことだ。シェイクスピアもジャニーズも似たようなものかもしれない。別に知らなくとも生きていける。そんなことに気づいた私は大学生の頃、一生懸命文学や哲学の名著を読んでいた自分をようやく卒業できたと思う。