ファミリーレストランは死んだ
ファミリーレストランは死んだ。
卓上のボタンを押す。遠くでチャイムが鳴る。店内は何の匂いもしない。いや、薄い消毒液の匂いをエアコンの空調が静かにかき混ぜている。都会の風。黴臭く攪拌されたレゾンデートル。労働と疲労の匂い。生クリームより澱だけが積もっていく。世界が沈殿していく。沈殿していく世界を眺めながら薄いコーヒーを飲む。
ファミリーレストランが楽園であった時代は失われた。期待も興奮も無い食欲の墓場になってしまった。かつてファミリーレストランは楽園だった。様々な料理の匂いに遠くで誰かが吸う煙草が漂い、淹れたてのコーヒーを持った人が通路を歩く。鉄板の上で熱々に焼かれた肉は音を立て、運ばれてきたパフェに小さな子供が歓声を上げる。そこは紛れもなく幸福に満ちあふれた楽園だった。
だが今は違う。硬く、閉ざされた空間で黙々と食欲を満たすだけの場になってしまった。そこには期待も喜びも無い。薄汚れたユニフォームを洗う事を忘れた店員は疲弊し、運ばれてくる料理は期待を超えず、想定の範囲から出ない見た目や味は喜びを与えてくれる事は無い。ファミリーレストランは死んだ。店の看板はそのまま墓標となり、メニューは卒塔婆になってしまった。ぼくたちは魍魎だ。楽園だった頃の記憶を引きずる追放された百鬼夜行だ。
その死んだファミリーレストランでぼくは冷えたコーヒーを飲んでいる。そして彼女の肉体について考えている。柔らかい肉。夢と現実の狭間で曖昧になる意識。それは将門でありジェットシティーでありマザーボードでもある。彼女の肉体と言う地図はどうなっているのか考えていると意識が朦朧としてくる。眠り。現実。
汗だくのグラスが音を立てて氷を崩した。沈殿した意識が水面に顔を出す。
「別にあの人はお前の事を好きな訳じゃないだろう?」
向かいの席に座った男はパンパンに詰まったソーセージの様な指のせいで小さく見えるフォークをつかみ、固いクリームのミルフィーユを乱雑に崩していた。沈殿する世界の底で崩壊するミルフィーユの秩序。かつては楽園の象徴だったそれが今は疲弊と現実の旗印になっている。飲み込むように食べる太った男はフォークについた植物性の生クリームを丁寧に舐めとる。夢と希望で太った人間特有の滑らかな仕草。半径1mの環世界にある全てを食べ尽くす。食事と言う習慣が食欲と言う呪いになる。
「お前が好きだと言うから彼女も好きと言う、単にそれだけだよ」
横に倒されたミルフィーユは縞模様を縦方向に変えている。もうあの地層を切り裂く快楽は失われてしまった。その縦方向となった断層を大きく崩してひとくちに飲み込む。彼は何の為にミルフィーユを注文して食べているのだろう?古今東西デブの伝統芸能。甘いものが口に入ればなんでもいい、それが何であろうとどんな形であろうと構わない。約束された結果としてのデブ。怠惰とカロリーの積み重ね。誰も崩してくれない石の山。
「お前だって彼女の好意を根っから信じている訳じゃないだろう?」
仮に彼女の好意がぼく自身の好意に基づくものだとして何か問題があるのだろうか。先にどちらが好きになっただとか、その好意や愛情がもう片方の好意や愛情を引き出す事に何の問題があるのか。まさか彼は純粋に発生する両方向の好意や愛情みたいなものを無垢に信じているのか?
いや、そうではない。彼はわかった上で批判的になる為にそうした事を言っているに過ぎない。だから彼の言葉は虚無だ。まるで横倒しになったミルフィーユみたいに。秩序も無く存在意義も無い単なる塊。腕の生えたヴィーナス。燃やされない金閣寺。
彼は山に盛られたポテトフライを注文して、たっぷりのケチャップとマヨネーズをつけながら正確に五本ずつを指でつまんで食べていた。食事に於ける順序の崩壊は大人の特権かも知れない。デザートの後にアパタイザーを食べたっていいし、最初にメインディッシュを食べたっていい。欲望の赴くままに、どうせここは食欲の墓場でぼくたちは魍魎で百鬼夜行なのだ。美しさやルールを遵守する必要なんて無い。
ならば彼はどうして「役割」としてぼくを批判するのだろう。彼が僕の先輩である事や雇用主であると言う事が関係しているのだろうか?彼の方が先に彼女の事を知っていて、彼女に好意を寄せている……相手にされていない悔しさ、憤り、憎しみをぼくにぶつけているだけかも知れない。
その浅ましさこそが人間の本質なのかも知れないなと思った。つまりミルフィーユの後にポテトフライを食べるような醜さ、それでいて食事の順番を口にする矛盾こそが人間本来の姿なのだ。
ぼくは冷えて酸味を強くしたコーヒーをひとくちに飲み干した。
「例えば」
彼は視線をこちらに向けるがポテトフライを食べる手を止めない。
「例えば彼女の好意がぼくの彼女に対する好意に基づいたものだったとしてもそれは何の問題も無いし、多くの関係性に於いてあり得る事でしょう?」
ぼくは空になったカップを弄びながらどう続けようか考えた。茶色い水滴が白いカップの中を駆け回る。その茶色い水滴がカップの中を3周ほどした時、無表情な店員がミルフィーユの乗っていた皿を下げる。目の前の男は骨付きのフライドチキンを注文して手のふさがった店員をうんざりさせていた。効きすぎている空調は苛立つ店員の体温を下げる為にあるのかもしれない。沈殿した世界の底は感情も飽和している。
「ぼくと彼女の関係性が気に食わないならそう言えばいいのに」
ぼくの言葉に逡巡した彼はケチャップとマヨネーズにポテトフライを浸す手を止めた。細長いポテトフライの表面を過剰なサラダ油が流れてゆき、代わりにケチャップとマヨネーズが遡上する。肥満の地獄門。くぐってもサウザンアイランドになれないし、考える人がいればそこまで太らずに済んだだろう。
「確かに」
ピンク色になったソースをつけたポテトフライを飲み込んだ彼は、気の抜けたコーラで流し込み、すでに乾ききったウェットティッシュで指を丁寧に拭った。真新しいウェットティッシュは中央のカウンター、ドリンクバーの棚にある。彼が腰を上げて取りに行く事はないだろう。間違え続ける選択肢。東京屈指の重い腰。煤けた背中の熱さえ通さない皮下脂肪。
「確かに彼女とお前の関係性は気に食わないし、嫉妬もしている。いくら僕が太った醜い中年男性だからってその手の感情は消えた訳じゃない。僕の方が先に彼女を知っていることもあるし、僕が彼女を好きだってこともある。あぁ、いい、わかっている。僕が気の多い人間だってことくらいは自覚がある」
ケチャップとマヨネーズでピンク色になった息を吐いた彼はグラスに残ったコーラを喉に流し込み、ブロック状の小さな氷をガリガリと嚙み砕いた。小さな氷の破片が彼の口から飛び散りファミリーレストランの天井から吊るされたLED照明に反射してキラキラと光り輝く。
「だから、僕はきみに宣戦布告をするよ。ダイエットをして痩せて、太った醜い中年男性である事をやめる」
彼はそう言いながら、皿の上に残った黒焦げの小さなポテトフライをつまんで口に放り込んだ。またひとつ石を積み上げる。誰も蹴り壊してくれない石の山。決意表明と同時に満たされる食欲と言う呪い。沈殿する自己制御。
太った人間が太った人間であるが故に許される数々の行為があり、仮に彼がダイエットをして醜く太った中年男性をやめるのであれば、それらの全てを手放すと言う事だ。つまり太った人間だから笑って許されたデザートとアパタイザーの倒置した順番や、噛み砕かれるコーラの氷、そして運ばれてくる骨付きのフライドチキンにたっぷりのマヨネーズ、忙しい店員を呼び止めてウンザリさせ、ぼくが席を立ったついでにウェットティッシュをお願いするような甘ったれた精神の全てが今まで通り行かなくなる。
仮に彼女が痩せたこの男を選ぶのならそれまでだし、そういう世界線だって存在するだろう。別にぼくと彼女の関係性に自信がある訳じゃない。だが彼が痩せた時にそれらを手放せるとは思えないと考えているのは事実だ。沈殿する世界の底から目指す水面。急浮上した肺は破裂する。
「構いませんよ」
カップの中を走り続けた茶色い水滴は小さくなった。彼女と目の前の男が並んで歩く世界を想像する。あり得ない世界じゃない。ただぼくの環世界には無いだけだ。沈殿した世界のさらに下。混濁した意識と汚泥の底。彼女の肉体が誘う柔らかい意識の混濁とは違う曖昧で硬質な眠気。小さくなる敵愾心。沈殿した世界を走り回るぼくの思考。
机の上に置かれる小さい希望の小箱。
「なんの話をしてたの?」
喫煙所から戻ってきた彼女が小さく微笑む。
「なんでもないですよ」
沈殿した世界で溺れて死ぬならぼくは彼女とそうしたい。
ファミリーレストランは死んだから。