情報社会になってから、飲食のよろこびは増えたの? 減ったの?
あのね、食事って五感のよろこびでしょ。お、いいにおい、盛りつけも綺麗、いいね、この味わい、うまいねぇ、うまいうまいうまい。しあわせだなぁ。そんなよろこびが家族や恋人、はたまた友達と共感共有できればそれで最高にハッピー。あったりまえのことでしょ。それなのにどうして食事がこんなややこしいことになっちゃったの???
ここ15年ほど(?)あるいは20年以上にわたって(?)ぼくらの飲食行動は激変中で、いまなおとどまることがありません。ミシュランやゴエミヨはもちろん、既存メディアも食べログそのほかのレストラン格づけサイトもはたまたレストランレヴュアーも、誰もが something difference を探していて。いまやまるでぼくらは料理ではなくて、「情報喰ってんじゃね?」とおもえるほど。
たとえば、ラーメン屋ならばまず問われることは、スープは清汁系/白湯系? 背脂チャッチャ系? それとも魚介系? 具材はマダイ? カキ? 銀ダラ? サンマ? エビ? 調味料は醤油? 塩? ミソ? バター?
中華料理屋ならば、台湾系、本土系? 広東? 上海? 四川? 東北四川? はたまた蘭州? 日式? ガチ中華? レストラン系? 屋台系?
インド料理においては、北(パンジャビ系)? 南系? 東(ベンガル)? 西(ムンバイ)? そのうえ、隣接国にはパキスタン、ネパール、スリランカ、バングラデシュが控えていて(たがいにスパイス料理として似通った姻戚関係を持ちつつなお、しかし、同時にそれぞれ)違った様式をそなえています。
このていどのことならば、知らないよりは知っている方がよりいっそう食事を愉しめる可能性がたぶん高い。ただし、これは食の情報化の序の口ですよ。いまや食の情報化はとどまることを知らず、料理人の名前、年齢、経歴、その料理のオリジナリティはどこにあるのか、それぞれの食材の産地、生産者、調理法や味つけの特徴・・・あらゆるものが可能な限り情報化されてゆきます。ぼくはおもう、もう充分、エンド・アップだろ??? しかし、どこまでもこの情報戦争は激化してゆくのだ。しかも、メディアのリポーターやレストランレヴュアーがどこに情報価値を見出すのか、そこには一定の基準があって。しょせんそれはいわゆる一般的基本情報と、あとはヴュー回数とイイネが稼げる情報に限られている。
飲食は五感の愉しみ。ほんらい情報はあろうがなかろうがどっちだっていい二次的なこと。そもそもまず最初に食事は生きるためにあって。次に家族、恋人、仲間とたのしい時間を過ごすためのもの。料理を味わい愉しむにあたって、料理が情報化されていようがいなかろうがまったく(とまでは言わないけれど基本的には)どうだっていいことだ。
そもそも対象がなんであれ、それを情報として扱って評価することは失礼なこと。人だってそうでしょ、美醜、学歴、職歴、年収、資産だけで評価されるのは不快でしょ。たとえ申し分のないスコアを持っていたとしてさえも。にもかかわらず、情報化という下品な暴力がいまや社会全体のデフォルトになりつつあって。つまりわれわれはみんな品位を欠いた社会に生きている。それはあるていど仕方のないことであるにせよ、しかしもしも食までもデータ化された結果、食事のよろこび、享楽、官能までもが減却されてしまうとすれば、それはあまりにもったいないことだとぼくはおもう。食は五感の愉しみなんだよ!!! 情報はあってもなくてもどっちでもかまわない!!!
ただし、そんなぼくも食いしん坊の端くれ。知りたい情報もなくはない。ぼくがそれを知りたいかどうかは料理人にも料理にもよるけれど。料理人にとってかれが作るすべての料理は、かれがかれの人生の職業経験で身につけたいわば作品であって。ひとつひとつの料理にかれと料理の出会いの物語があり、失敗のくやしさの経験があり、コツを身に着けおいしさの質を上げてきたよろこびがあって。ときどきぼくはそういう話を知りたくなる。しかしいちいちそういう地味な事柄を拾って掬い上げてくれるリポーターやレヴュアーは少ない。しかもたとえそれらの話題が情報化されたところで、それはすでにデータ(ただの言葉)に過ぎない。
そもそも料理であろうが人の体験であろうが情報化できる部分はあまりに少ない。しかし、にもかかわらず情報ばかりがありがたがれ、情報から情報が作られ、情報は何度も使いまわされぐるぐるまわってゆく。ぼくらは自分が経験してない不確実な情報をどれだけたくさん脳内に詰め込んでいるだろう? もしもぼくらがデータ(ただの言葉、あるいは数値)を基準にすべてを判断するようになれば、必ずやこの世界はめちゃくちゃになってしまうでしょう。こんな事態になって世界と人間が手を取り合っておかしくなくならないわけがない。
ぼくらはもう少し自分の五感を信用した方がいい。自分の五感が鋭敏であろうが鈍感であろうが、また五感の感受性に凸凹があろうが、自分の五感によってしか自分の経験は成立しないのだから。
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