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ダンスフロアで、音楽文化最終消費の悦楽にひたる。

先日ぼくは実に四半世紀ぶりにクラブ活動を再開して、某クラブでオールナイトでダンスしてはペルノーの水割りなど飲み、またダンスしたりを繰り返し朝までの時間を愉しんだ。そして遅ればせながらぼくは音楽の現在を実感した。以下はその打ち明け話です。


これまでぼくはハウスミュージック~テクノ~エレクトロニカ系にほとんど関心がなかった。ひさしくクラブでダンスする習慣のなかったぼくにとって部屋でそれらをBGMとして聴いてもおもしろくもなんともなかった。例外的に長年Rei Harakami とAphex Twin は贔屓だ。さいきんMeat Beat Manifestoを知って、かっこいいな、とおもってもいた。さて、そんなぼくはひさしぶりにクラブへ行って、真夜中に五感が開かれるよろこびを味わった。


クラブのほの暗いきらめく空間のなかで、ゆらめく光とともにトラックが一曲ごとに時間と空間を幻想的に染めあげる。そうか、このてのジャンルの音楽は、ダンスフロアのオーディエンスたちが陶酔に至るための飛び道具であり必需品だったのね。はやいはなしが(明滅する光と暗がり、各種アルコールなどとともにある)陶酔のためのパーティミュージックなのだ。そりゃあパーティドラッグも流行るわけでしょう。けっしてぼくはやらないけれど。それなのにこれまでのぼくときたらハウス~テクノ~アンビエント~エレクトロニカを作品だけで完結しているものだと誤解していた。作品至上主義でもって受け取っていた。これではぼくにとってこれらの音楽が(前述の例外的才人ミュージシャン以外では)ほとんどおもしろくなかったのもあたりまえなことだった。ごめん、ぼくの聴き方がまちがっていた。



次に、ハウスミュージックに代表されるダンスミュージックの世界では、すでに楽曲という単位が事実上崩壊していて。なぜって、トラックが何分だってかまわないし、しかもDJがまたそれを素材にしてあれこれいじる。ウデのいいDJの場合には、古く懐かしい素材を組み合わせて新たな世界を作りあげる。したがって、どこまでがアーティストの創造で、どこからがDJのクリエイションか、ただ聴いてダンスしているだけではまったくわからないし、わからなくても誰も困らない。


そもそもいまでは楽典に用はない。楽音と雑音の区別も要らない。和声学も旋律学も役に立たない。カデンツも死んだ。和音もメロディもあってもいいしなくてもかまわないのだ。もっと言えば、いまあるすべての音楽はただのコラージュのための素材に過ぎない。ピッチもBPM(テムポ)も変幻自在。ディレイもエコーも好きなようにかければいい。ビートだけは必要だけれど、ただしそのビートもサンプリングされたものかあるいはリズムマシーンが叩き出す。ただダンスフロアにその短い時間と空間に新しくかっこいい幻想的な色彩がついて、気持ち良くダンスできればそれでいい。オーディエンスが飽きる頃にはDJが次の斬新なトラックを即興で創造しながら流してくれる。


とんでもなくunexpectedな時代になったもの。気がついたら〈音楽の定義〉が激変している。しかも、これからどんどんAIが音楽を作る時代になってゆく。たぶんAIは、たとえばBrian Eno のMusic For Airport の変奏曲集100パターンとか、たちどころに作ってしまうだろう。いったいこれから音楽はどうなってゆくだろう??? いいえ、そんなことはどうだっていいことだ。だって、ぼくが心配しようがしまいが訪れる未来はすでに決まっている。大事なことは五感をフルに使って、いまこの瞬間を愉しむこと。


この頃のぼくは、定期的に中古CDショップのハウス~エレクトロニカの棚を覗いて、イカれたジャケットの百円から数百円のものをテキトーに選んで十枚ほど買ってきては、部屋で聴いている。あいかわらずぼくの贔屓は、Rei Harakami 、Aphex Twin 、Meat Beat Manifestoではあってそれらは相対的にやや値つけが高い。ただし、同時にむかしのぼくだったらゴミのように感じて即座に処分しただろう音楽であっても、いまではゲラゲラ笑って愉しめるようになった。なぜなら、いまのぼくはたとえ自分の部屋にいるときであっても、ダンスフロアにいる自分を体感できるようになったから。

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