働くおっさんの街のままでは未来はなくなった。だから丸の内はキラキラになった。
東京都千代田区丸の内は、西に皇居(旧 江戸城)、東に東京駅のその間に位置し、かつまた北隣は大手町に、南隣は華やかな繁華街・有楽町にそれぞれ接しています。丸の内は、江戸時代にあっては徳川家のお膝元の大名屋敷街でした。
明治以降の丸の内は大手町とともに多くの大企業の本社ビルで埋まり長らくもっぱらビジネスユースの街であり、鉄鋼、造船、セメント、非鉄金属、化学工業など重厚長大産業の本社や、総合商社が集まる日本経済の中心地でした。
ところが20世紀末あたりから産業構造が変化し、バブルは弾けIT化の時代がはじまります。隆盛してゆく産業は半導体関係、製薬、そして株式証券にはじまるサーヴィス業であり、旧態依然としている銀行はどんどん統合されてゆきます。いまにしておもえば、やがてインターネット上でのさまざまなサーヴィスが経済の覇権を握ってゆく、いわゆるGAFA四騎士の時代が間近に迫っています。多くの商品が付加価値を要求されるようになり、機能とエンタメ的要素と販売促進がともすれば結びつくようになり、経済全体がソフト化してゆく流れが生まれます。
他方、長らく主役であった造船、鉄鋼、それらの関連会社の本社はコスト削減のためこのエリアからどんどん転出をはじめました。その背景には造船においては中国や韓国の台頭があり、鉄鋼においては依然として日本の技術力は高いものの、しかし世界各国の鉄鋼業の競合は苛烈を極めるようになった。そもそもコンテナ船一隻170億円とはいえ、ただし鉄鋼の価格が跳ね上がれば利幅が削られる構造的にリスクを抱え込んだ業態です。このように業界の現実が厳しくなった結果、もはや「世界に冠たる造船大国ニッポン」でもなければ「鉄は国家なり」でもまったくなくなってしまいました。まさかこんな時代が訪れるなんて誰が想像したことでしょう。
大手町、丸の内の大地主たる三菱地所はさぞやあせったことでしょう。なぜならこの動向は不動産屋とてけっして他人事でいられるはずがありません。もはや既存のビルを管理しあるいはビルを建てて、貸して、あるいは売って収入を得る、それだけでは生き残ってゆけない時代が始まったのですから。このままではいけない、自分たちも共倒れになってしまう。おもえば昭和の丸の内はもっぱら平日昼間だけ活気がある灰色のオフィス街で、夜や週末は人っ子ひとりいないからっぽのゴーストタウンだったもの。真夜中の大通りをネズミたちが駆け抜けてゆきます。これではいけない。街を変えなければいけない。かれらは危機感を持ち、20世紀末から21世紀初頭にかけてこのエリアに大規模再開発をおこなってゆきます。かれらはもはやかつてのような殿様商売に甘んじる大手不動産屋ではありません。このときからかれらは都市のプロデューサーに、そして消費社会のキュレイターになってゆきます。もしもそれが叶わなかったならば、かれらの資産の価値はどんどん目減りし、結果かれらは生き残ることができなかったでしょう。かれらの威信を賭けた闘いがはじまりました。
三菱地所による丸の内再開発の中心は大正時代に辰野金吾によって設計されたもののとっくに解体されていた煉瓦造りの東京駅丸の内駅舎の復元です。そして次にていねいに行われているのが日本の近代建築の夜明けを告げたジョサイア・コンドルによる煉瓦造りの三菱一号館の復元です。いずれも煉瓦造りの建築であるのは偶然ではありません。
実は煉瓦は近代と切っても切れません。なぜなら煉瓦はたんに当時の流行素材であったわけではなく、むしろまずなによりも煉瓦は近代そのもので鋳鉄の炉を作るために必要でした。当時においては煉瓦造りの炉がなければ鉄砲も軍艦も零戦(ゼロ戦)も作れません。まず煉瓦をたくさん作れたからこそ、日本は「鉄は国家なり」の時代を勝ち抜くことができたのです。近現代史のなかでこの煉瓦じたいも炉の用途ごとにさまざまにハイテク化してゆきます。
三菱地所は大東亜戦争の戦中/戦後の激動の名残を宿す明治生命館をはじめとした数々の歴史的名建築を復元し、あるいはリノヴェーションをほどこし、このエリアをさながら名建築テーマパークのようにリプレゼンテーションしました。
それらと並行して三菱地所はオフィスビルの低層階にお洒落なレストランやブティックそのほかの商業施設、文化施設を作り華やかな街づくりをおこなってゆきます。かれらはたくさんのお楽しみを取り揃えました。さまざまな目的に応じた素敵な飲食店を集めたのはもちろんのこと、スポーツジムもあれば、美容院、エステ、ネイルサロン、SPAも、マッサージもある。服好きにはブルックスブラザースからポール・スミス、エルメスからコム・デ・ギャルソンが、宝石好きにはティファニーが、本好きにはOAZO丸善が、音楽ファンにはライヴハウス・コットンクラブが、名画好きには美術館・三菱一号館が、これは三菱地所の仕事ではなく、またもともとあったものながら、ミュージカルファンには帝国劇場が、博物学マニアにはJPタワーKITTE(東京中央郵便局ビル)のインターメディアテク(無料)に飾られる恐竜の骨格標本が、それぞれ魅惑の光を放っています。なお、恋人たちにとっては、JPタワーKITTEの7階屋外庭園で夜景を眺めるのも楽しいでしょう。また、東京駅と皇居をまっすぐつなぐ広い広い行幸通りから見る、夜ライトアップされた東京駅丸の内駅舎は、まるで夜のディズニーランドみたいに綺麗です。
これによってファンタジーの趣をともないながら丸の内は〈近代日本の象徴、大日本帝国の帝都の中心〉として甦るとともに、あいかわらず丸の内は現代日本をリードするビジネスの中心地であり続け、しかもいまやはなやかな〈消費と文化の都〉にもなってそんな万華鏡的演出が奇跡のように成功しています。いまや丸の内は必ずしもこの地域で働く新聞社の社員や、さまざまな企業のビジネスマン、キャリアウーマン、OLのための場所であるのみならず、他方でよそから人びとがお楽しみを求めてやってくる場所にもなりました。しかもいまや昼も夜も平日も祝日もいつも賑やかです。こうして丸の内は変貌しました、仕事と遊びがボーダーレスにつながってゆく時代にふさわしい姿に。
振り返れば三菱地所が再開発ガイドラインを制定したのが2000年、それに先立ってフレンチレストラン・ミクニマルノウチは1999年12月に開店しています。2002年の丸ビル建て替え、そして2004年のOAZOのオープンを、再開発のスタートラインと見ることができるでしょう。
三菱地所の作戦は大成功したと言えましょう。なぜなら、たとえオフィススペース需要だけ考えてみても、場所の付加価値を上げておかないと、借り手は埋まらず、おのずと値崩れしてしまいます。なにしろとっくに東京のオフィススペースは供給過剰なのですから。しかもコロナによるリモートワーク増とオフィス縮小傾向のなかにあって、港区、渋谷区の不動産事情にはいくらか危機感が生まれているなか、しかし、丸の内人気はかなりなところ持ちこたえていて。ロンドンよりもマンハッタンよりも清潔で気持ちのいい街として(?)ほとんど借り手で埋まっています。
なかでも三菱一号館、ブリックスクエアのあたにもっとも華があります。ロブションのカフェ、華麗な花ばなを揃えたブティックみたいな花屋HANAHIRO(花弘)さん、そして中庭にはいかにもヨーロッパ的に植物が緑ゆたかにアレンジされ、ちいさな噴水があって、さりげなく彫刻も飾られています。奥には煉瓦造りの美術館、三菱一号館。そしてその中庭に面した2階にミクニマルノウチがあります。
かつて殿様商売の不動産屋だったスタッフたちが産業構造の変化を自分たちの存亡の危機ととらえ、生まれてはじめてクリエイティヴィティを獲得し、かれらの建築資産を活かしながら、華やかな都市をリノヴェーションしていった。このドラマ、ちょっとおもしろいとおもいませんか?