言葉という魔的なもの。(なぜキリストもお釈迦さまもソクラテスも本を書かなかったの?)
もちろんその理由は、言葉というものがつねに状況とともにあって、話者と相手の関係のなかで意味が生まれるもの。したがって、いったんその文脈を離れてしまうと言葉はどのように「理解」されるかわからない怖れがあるからでしょう。いまでいう「切り取られた発言」の恐ろしさ、芸能人に頻発するブーメラン現象などという話にも通じています。
書き言葉は情報であり、いったん発表されてしまえば、文字列は固定され一切動かない。(もっとも、ネットの場合は加筆修正もできるし、本の場合も増刷時に改版もありえるとはいえ、たいへん限定的です。)他方、ヒトという生き物はそれこそ動的平衡を生きていて、つねに変化しているもの。したがって書き手は刻々と変化しているにもかかわらず、しかしネットや本に書かれている情報は動かない。
余談ながら、書き言葉はニュートラルであることを理想とするゆえ、書き手の声がほぼ消えてしまう。したがって、ときに読者はその人がどんな声でどんなしゃべり方をしただろう、と思案する。たとえば、聖書の大阪弁訳が登場したり、キリストはフーテンの寅さんみたいな人だったのではないか、などという発言が生まれるのも、こういう流れのなかのことでしょう。
もっとも深刻な問題は、いまの人はあまりにも言葉を信用しすぎていて、ほんらい言葉がたいへん頼りないものであることを忘れています。たとえば、「わたしを信用してください」とか、「感謝しなさい!」とか、「ぼくを好きになって」なんて言葉は哀しいほど無力なもの。こういう状況で言葉に頼ったところでけっして事態は好転しません。
とうぜん読者は問うでしょう、「じゃあ、jullias suzzy 、あなたはなんでnote に文章書いてんの?」それはもちろん、ぼくが文章を書くことが好きで、文章によって未知なる誰かと少しでも交流したいからではあって。次に、文章を書くことによって、たとえ少しだけでも自分を客観視できることがありがたいから。また自分の考えや感じ方がどこまで人に届くのか届かないのかを知りたいともおもう。ついでに言えば、文章は毎日書いていないと勘が働かなくなって、滑らかな文章が書けなくなってしまうことが嫌だから。
言葉という頼りないものを使って人は考え、冗談を言い、ときには愛し合いもすれば愛が憎しみに転化することもある。それでも人は言葉を使って誰かと繫がり、物の見方を共有したいと願う。危なっかしいことだと知りながら。