官能は五感をよろこばせるゆえ大事にする。しかし、われを忘れて陶酔するのだけはごめんだ。三島由紀夫の美学、『貴顕』(1957)
短編集『真夏の死』に収録されているこの作品のなかで三島由紀夫は、練磨された趣味をそなえた美術鑑賞家で猫を愛する美少年の短い生涯を、尊くかけがえのないものとして描き出しています。かれは少年時代から「陶酔的な生や外界の事物に対するある疎遠な感じを抱いていたらしくおもわれる。」ただし、だからと言って「熱狂から遠ざかって、冷笑や皮肉を投げかける気質の人だったというのではない。かれには生まれながらの、やさしい、穏やかな無関心があった。」かれは知的なものを怖れていた、知的陶酔を遠ざけたいがゆえに。
かれはこう考えるに至る、「あらゆる陶酔を免れる近道は、自分の官能の形式を磨き上げ、それを独自のものとするほかない。」なんとも言い回しが難しいけれど、つまりかれは五感のよろこびであるところの官能は求めるけれど、しかしわれを忘れるような陶酔だけは御免だ、というわけである。ロックやハウスミュージック、レイヴ、はたまたHipHop好きにはおよそ考えられない見解である。しかし、いかにも三島らしい!
なお、この短篇は後半でこの少年が敗血症にかかり、苦しみのなかで人格を変化させてゆく様子が生々しく描かれもする。三島が祖母のなつや、三島が愛した妹の美津子を手厚く看病し、ふたりの死に立ち会った経験が伺える迫真の描写が味わえもする。
ぼくはこの作品を読んで、三島が(映画『からっ風野郎』で歌を唄いこそしたものの、しかし)音楽にさほど興味を示さなかった理由を知る。官能は五感をよろこばせるゆえ大事にする。しかし、われを忘れて陶酔するのだけはごめんだ。ーなんて不思議な考え方だろう。ここでもまたぼくはおもう、三島由紀夫は恋愛に向いてない。