山崎まさよしさんのライヴについて、脳血管トラブルの可能性を推理する。

2023年10月23日の山崎まさよしさんのライヴが2時間半で8曲歌っただけで、しかもしゃべりもぐだぐだだったことがたいへんな話題になっていますね。どうしてこんなことが起こったろう? もしかしてあの日、ライヴに先だって山崎さんの脳内の音楽する部位に、なにかちいさな物理的損傷が起こってしまったのではないかしら。「気怠いおもい、脳下垂体前葉は破裂寸前」? 「がんばってみるよ、やれるだけ」? そんな歌詞は洒落にならなかったのではないかしら。


まず最初に、山崎まさよしさんはマルチプレイヤーです。滋賀県生まれの山口育ちで、関西ふうの気さくなおしゃべり。下積み時代の苦労も無駄じゃない。生活感がちゃんとあって。かれは暮らしのなかのありふれた素材を詩を変え、ロックフレイヴァーあふれるポップな作曲をして。アコースティックギターを乾いたいい音で、まるでアメリカ人みたいに弾く。かれは曲の進行のなかでときに半音階や経過音を挟んで洒落た印象を添えもすれば、はたまた絶妙な箇所でオーギュメントやディミニッシュを挟んで苦味を聴かせ大人っぽい響きの彩りを添えもする。(かれの和音のセンスのすばらしいこと!) そしてかれはビートに乗せた巻き舌日本語で歌い、アメリカ南部の草の匂いのするブルージーなハーモニカを吹く。聴き手を自由自在に喜怒哀楽へ導く。聴き手はかれの歌を聴きながら、いつのまにか夢想の世界に遊び、幸福に包まれる。ほんらいかれはそういう人なのだ。


ヒトの脳ー身体はこまかやかな血管の網ですから、どこかに出血があるとか、血管が詰まったりなどすると、即座になんらかのトラブルがひそかに起きる。とくに人の脳は脆いもので、たとえば櫻井敦司さんのように脳幹がやられてしまえばもうおしまいだ。(ぼくはかれの死をただただ嘆く。悲しくてたまらない。)しかし、もしも脳血管の枝葉のような部位がちいさくやられたときには本人はそれに気づかないこともままあって。本人はただ「だりーな」とか「疲れがとれないよ。歳とったよ、おれも」とか、気分の問題とおもってしまうこともある。


なお、人の脳で、音楽する部位、おしゃべりする部位、その他、体の各部分を動かす部位はそれぞれ違いつつ、同時に脳全体で緩く連動してもいて。しかも音楽する部位と言っても、歌う、ギターを弾く、ピアノを弾く、ハーモニカを吹く、それぞれ脳の使い方はみんな違っているでしょう。


かれの言葉、「歌うのしんどい」「おれは歌いたくない」、おそらく心底そういう気分だったのでしょう。そしてかれにそう言わしめるだけのなんらかのトラブルが脳血管の枝葉の部分であったのではないかしらん。ぼくはそう推理せざるを得ない。また、この夜のかれのギターがいつになく下手だったとか、しゃべりもぐだぐだだっだ、という評の理由に察しもつく。


ぼくらの人格は、お豆腐のようなもの。


もちろん以上はすべてぼくの推理であり、仮説です。当たっている保障はありません。できれば今回のようなことは一過性のことであって欲しい。また、もしも仮にぼくの不穏な仮説が当たっていたとして、脳にはかなりな可塑性があって、障害部位を他の部位が肩代わりする可能性もあって。また不幸にもぼくの仮説が当たっているとして、いまのような時代にあって、ぼくらはみんな、あすはわが身、とおもっていい。「これ以上なにを失えば、ぼくは許されるの?」かれの歌声が胸を刺す。


なお、山崎まさよしさんにはパーキンソン病説があるそうな。進行期パーキンソン病の患者さんは新型コロナ感染によって、重い症状になる可能性がある。逆に、コロナ感染によってパーキンソン病になってしまうことも稀にあるそうな。またワクチン後遺症の可能性も考えざるを得ません。



なお、このライヴの十日後、11月2日名古屋でのかれのライヴでは、かれは一曲目の『セロリ』からアンコールの『僕はここにいる』まで計18曲、歌い演奏したそうな。一安心。山崎まさよしさんの今後の活動に期待しています。



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