バカとインテリの中間で生きる。
サブタイトルをつけるなら、〈五感を使って生きるよろこび〉という話でもあります。
今回はぼく自身についての話です。コドモの頃からぼくは音楽や美術や食べることが大好きで、本は手あたり次第に読んではいたものの、しかし、学校の勉強はおもしろくもなんともなかった。わずかに英語と国語と音楽と美術だけは苦労もしなかったけれど、しかし数学も物理も歴史もまったく興味がわかなかった。いまにしておもえば、観念を操作して抽象的にものを考える習慣に馴染めなかったのだ。しかも(気の毒なことに)少年時代のぼくは、本のなかの人は別として、自分が尊敬できる輝かしい生身の知性に出会ったこともなかった。
ぼくのような人間はアート系に進めば良さそうなものを、しかしアート系はまた努力と技術が求められるゆえ、ものぐさなぼくはそれさえ選べなかった。けっきょくぼくはごく平凡な人文系の大学にもぐりこんだ。
そしてぼくは驚いた。あ、これがガクモンというものなのか。大学に入ってはじめて、文化人類学、文化記号論、文学研究、神話学、生物学、遠いむかしの人が書いた博物学など覗いて、なんだなんだなんだ、けっこうおもしろい世界じゃないか、とびっくりした。と同時にぼくは驚いた、そうか、ぼくは世に言うバカだったのか。ほんらいならば自分がバカであることくらいとっくに気がついていいはずのことながら、しかし傲慢なぼくは、 成績がぼろぼろでもまったく動じなかった。むしろ「どうして学校の勉強はこんなにつまらないのだろう、教科書はもっとおもしろく書けるだろうに、関係者はみんなどんくさいなぁ」と、上から目線でバカにしていたのだった。呆れた話である。むかしの先生にぼくは謝りたい。そしていまのぼくはむかしのぼくに言ってあげたい、バカはおまえだよ!
たしかに当時のぼくはバカだった。たとえばぼくはアメリカというカタカナ四文字は知っていても、しかしぼくが知っているのは百人ほどのミュージシャンと、十人ていどの小説家、あとは3ダースほどの映画だけだった。『地球の歩き方』のページを開いたことさえなかった。もちろんアメリカのみならず、神羅万象に対してそんな態度だった。
それでも大学在学中からぼくは音楽についての文章を書いたり、ちょっとした取材記事を書いたり編集の仕事をするようになって、世の中には賢い人がいっぱいいるものだなぁ、とびっくりしたものだ。では、それからぼくが賢者への道を邁進したかと言えばまったくそんなこともなく。たしかにぼくはガクモンおもしろさもちょっぴり知ったものの、むしろ〈自分は五感を使って生きている、そんなタイプの人間であること〉を自覚したのだった。あいかわらずぼくは本こそたくさん読むものの、しかし観念だけの世界が苦手なままだ。
それからずっとぼくは、バカとインテリの中間で生きて来た。そんなわけでぼくの書く文章もまたこんなふうになっています。これがぼくにはいちばん合っていて。しかも、ぼくがしたしくなる人もそういう傾向があるとぼくは睨んでいるけれど、しかしそんな失礼なことはけっして口に出せません。いまこの文章をここまで読んでくださったみなさん、こんなぼくですが、どうぞよろしくお願いします。
(写真はぼくとインド人料理人ムゲーシュ。)
Eat for health, performance and esthetic
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