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キスよりも接吻という文字に欲情する青年、三島由紀夫。
いまこの文章をお読みになっているあなたに、漢字フェティシズムはあるかしらん? これまでぼくにそのようなものはほぼなかった。しかし、三島の作品を読みふけるようになって、ぼくにも漢字フェティシズムが育ちつつある。いまにしておもえば、たとえば(見るからにマゾヒストの)才女・椎名林檎さんの漢字ヘのフェティシズムに、ぼくはもっと早くなにかを感じるべきだった。
いいえ、三島の話へ戻ろう。三島は自分は潜在的男色者として育ち、女を愛そうとしても結局のところ無理で、結果男色者になりおおせ、ゲイ寄りのバイとして生きた、と衆目におもわせたがったものだ。しかし、近年の三島評伝研究に従うならば、実は真実はそうではなく。むしろ三島の性的ファンタズムは、ヘテロ、ゲイ、ヘテロ、バイと揺れ動いた。そもそも『仮面の告白』にしてからが青年三島(とおぼしき主人公)は、女との接吻への期待と妄想で胸がはちきれそうなほど。
さて、ここで接吻という語である。吻の字は唇を示し、言うまでもなく接吻とはその唇が別の誰かの唇と接し合うことである。いまで言うキスですね。ここで興味深いことはその「接」という手偏を備えた文字のその作りに「妾」が潜んでいること。もちろん妾とは愛人のことである。不思議なことだ。なぜなら、(ぼくは古代支那の性愛文化についてはなにも知らないけれど、現代においてはハリウッド映画の影響もあって)接吻は恋人ともすれば、親子間の愛情表現でもあれば、ときには友情のこもった社交的なものでもあり、もちろん夫婦間でもするだろうに、しかしなぜか接吻という語には妾が登場するのである。実におもむき深い。
思春期ひいては二十歳の三島は、女とのその行為にリビドーをたかまらせた。ただし、それはけっしてキスという語ではなく、むしろ接吻という文字にこそ胸焦がすほどそそられたことでしょう。文学者とは言葉に恋する者のまたの名である。三島によってぼくはそれを教えられる。
なお、われわれは漢字を使うことによっておのずと古代の支那文化と繫がりを持つ。たとえば「姑(しゅうとめ)」という語は、mother-in-law(義理の母)のことながらその文字は、女が古くなったことを示している。「姑息」という語は、姑の息と書く。いやはや、古代の支那はなんともおどろおどろしい。漢字世界にフェミニズムなどという現代思潮は存在しないのである。