見出し画像

ディズニーランドの孤独な王子、三島由紀夫。

三島由紀夫をぼくは少し愛している。なぜって、文章を書く人ならば三島のフランス近代文学由来の美しく的確な修辞に魅了されない人は少ないでしょう。ただし、ぼくは三島が長篇で展開するストーリーにはまったくついてゆけない、どうして三島はこんなふうにへんてこりんに考えるかなぁ、とともすれば本を投げ捨ててしまいそうになる。なお、ぼくの一連の三島エッセイは、そんなぼくがそれでも三島の全貌をできる限りつかまえようとした努力の産物である。



したがってそもそもぼくはけっして三島の正統的愛読者とはとうてい言えない。もともとのぼくはただ自分が好きな三島作品だけをひたすら読み続けてきただけだった。ぼくが好きな作品はおおむね短篇で『サーカス』(初稿1945、発表1948)、『ラディゲの死』(1953)、『詩を書く少年』(1954)。そして三島が当時現れた日本のユースカルチュアたるビート族に、当時のニューヨークのグリニッヂ・ヴィレッジ・カルチュアが花開いたことをよろこび、当時30代初頭の若きおじさん三島が夜のなかでこそイケイケの若者たちのなかに混ぜてもらったことをうれしがりながら、かれらの無目的な夜の芸術愛好と退廃を描いた『月』(1961)および『葡萄パン』(1962)。そして三島理解にとって重要な戯曲『サド侯爵夫人』(1965)あたりだ。また、『美しい星』(1962)が意外にもひじょうに重要な作品で、三島と俗物憎悪ひいては不完全きわまりない人間一般への激しい軽蔑と呪詛のすさまじさに圧倒される。(この作品は、地球を滅亡から救おうとする一家の話で、父は自分のことを火星人、母は木星人、息子は水星人、娘は金星人であるという設定になっています。)



なお、フランスでは三島は「日本のコクトー」と呼ばれることがある。ぼくはこれには異論もあるものの、ただし、ぼくの好きな三島はたしかにコクトー的な作品群かもしれない。



もっとも、そんなぼくもさすがに『仮面の告白』(1949)と『金閣寺』(1956)は読んだ。前者は1949年三島24歳に書かれた自伝的小説で、関東大震災の翌々年に生まれ、大東亜戦争のなかで明日をも知れぬ日々に、死にあこれながら育った三島とおぼしき少年の、同性愛とマゾヒズム、そして血、夜、そして死への欲動に彩られた自伝的作品。しかも本文のなかに三島自身による明晰な解説(自己分析)が織り込まれ、三島の(三島を理解したい読者に対してたいへん親切な)作品ではある。ただし、小説として読むと4章構成のこの作品において、あれだけゲイのファンタズムを語って来たにも関わらず、後半園子が登場し主人公が園子を愛してからの主人公の叶えられなかった純愛と、主人公の混濁した性的葛藤と煩悶が、ぼくにはわからない。あるいは三島にとって、そんな後半こそがしらけた敗戦後の象徴なのかもしれないけれど。なお、ぼくが不思議におもうことは、なぜ『仮面の告白』に敗戦の2カ月後、腸チフスで命を落とした三島の最愛の妹・美津子のことが描かれていないだろう? なお、三島は短編集『ラディゲの死』収録の『朝顔』(1951)で、すでに死んでしまった美津子がしかし夢のなかでは病気も治り元気に生きていて仲良く会話を交わす、そんなはかない(ただし、死への誘惑を不穏に抱え持った)作品を書いています。



後者『金閣寺』もまた名作の誉れ高く、三島の観念的思考(資質)がよくわかる。ただし、ぼくにとってはこの作品もまた三島の観念的思考の理解に役立ったというだけのことだった。これだけブリリアントな作品の、いったいどこが不満なのか、と問い詰められそうだけれど、おそらくその理由はけっしてぼくが三島のように観念的にものを考えないからだでしょう。ひらたく言えば、ぼくはバカとインテリの中間で生きていて。たとえば幸福は(悲劇、殉教などと同様)観念であるにせよ、しかし幸福の実感は観念の外にある。幸福に生きることは義務である。あるいはこれをぼくの文学観と受け取ってもらってもかまわない。



むしろ、ぼくにとって興味深いことは、三島の愛情のありかたと恋慕の傾向である。具体的には三島が、(敗戦の二か月後)、17歳で早世した妹の美津子を溺愛したこと。また三島が岸田今日子、高峰秀子、石井好子、越路吹雪、芳村真理らあの時代最高の才能あふれる美女たちとおしゃべりしているとき、心底くつろいで楽しそうであること。三島が鴎外の最愛のお嬢さん森茉莉さんをつねに手厚く庇護したこと。もちろん三島は奥様をも溺愛したでしょう。(『彼女たちの三島由紀夫』中央公論社刊2020年にくわしい。)



当時三島は岸田今日子にご執心で、彼女に「レズビアンの経験はないの? Sからの手紙をもらったことはないの?」などと質問し、岸田今日子を困らせた。また、三島は岸田今日子に、「仲谷昇との関係はどこまで進んだ?」などとも訊ねた。



同時に三島は美少年時代の丸山明宏(現・美輪明宏)を「天上界の美」と讃美して、生涯夢中だった。三島は自決の数日まえに、日劇に出演中の丸山明宏を訪ね、薔薇の花を三百本だか贈っている。他方、丸山明宏は三島の(ただひとりの?)理解者だったし、丸山もまた美の信徒ではあったけれど、しかし、丸山は他方で、『ヨイトマケの唄』を歌う人でもあって、社会の底辺に生きる人たちを力の限り肯定する人でもあった。もちろん三島にそんなまなざしはない。



丸山明宏



もうひとつ興味深いことは、三島の美意識である。1951年、26歳の三島が、16歳の美少年シャンソン歌手・丸山と出会ってからというもの、(もちろんTPOをわきまえてそれまでどおりスーツも着たものの)、三島は皮ジャンにジーンズを穿いたり、アロハシャツにビーチサンダルのような街場の兄ちゃんのような恰好をするようになる。50年代~60年代の三島は、それまでのお坊ちゃん育ちの優等生を脱ぎ捨てて、うれしがって街場の兄ちゃんを演じる。まるで遅れて来た反抗期である。なお、三島は、若き石原慎太郎をライバルに見立てていた。果たして、これは三島にとって、審美基準の変化だったろうか? いいえ、むしろお坊ちゃん育ちの三島が、二十代半ばから遅れて来た反抗期を満喫したということでしょう。


映画『からっ風野郎』の三島



また、三島は1959年5月、大田区南馬込の坂の上にロココ風の白亜の殿堂(というか、その後雨後のタケノコのように林立するラヴ・ホテルみたいな家)を建て、庭にアポロン像を据えてご満悦だった。


鹿鳴館スタイルの三島邸で
ポーズをとる三島。



三島の美意識は文章と人間の容姿以外にはきわめて怪しいけれど、それでも三島は三島にとって美しい存在を愛する。それは誰にもある心の動きではある。しかしながら、美しいもの以外にはまったく関心がないとなると、それはちょっと人として変だ。しかも、三島は自身の視野狭窄に気づけない。生涯気づこうともしなかった。三島は生涯少年として生きようとした。逆に言えば、三島に〈おじさんになる〉なんて選択肢はまったく存在しなかった。空恐ろしい人生観である。三島にはあきらかに、それこそ「貴様いつまで少年でいるつもりだ問題」がある。



ぼくはおもう、もしも美しか存在しない世界を想像するならば、それはディズニーランドである。三島は永遠にディズニーランドの孤独な王子様だった。別の言い方をするならば、ほんらい三島はピーター・パンやマイケル・ジャクソンになるべき人だった。しかし、三島はあろうことか憂国のサムライになって人生を閉じた。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?