いかにして沼尻匡彦さんは、南インド料理に夢中になったか?(沼尻さん物語。その1)

時まさに1980年から1982年にかけて。ある二十代の食いしん坊の商社マンが、鉱物系材料(カオリン、グラナイト、ミネラルその他)の入札・買いつけ、船での輸入のためインドのケーララ州に駐在していた。かれは商社マンですからインドで交流する人も上流階級の人ばかり、とうぜんのようにかれは最初の一ヶ月ほど、いわゆるクロスのかかったゴージャスなレストランで、糊の効いた純白のトーションを膝にかけ、背筋を伸ばしちょっと重めの輝くフォークとスプーンを使って、贅沢なインド料理ばかりを食べまくっていました。商社マンゆえ給料も高く、インドの家には召使もいる。しかも為替レートのゆえ贅沢はいくらでもできる。豪華なレストランに行きたい放題です。


ところがインド滞在一ヶ月ほどある日、かれはおもいがけず、仕事の関係でとある工場の社員食堂で昼食を召し上がって、その素朴なおいしさに驚く。こんなにも質素でこんなにもおいしい料理があったのか! いかにも異国の料理でありながら、それでいて他方で、どこか日本の昭和三十年代の、それこそキンピラごぼうだのイモの煮っ転がしだのおからだのがんもどきだののおいしさをもおもいださせてくれる。エキゾティックでありながら、懐かしい。これがミールスという食べ物なのか、おいしいなぁ。おいしい。すごくおいしいなぁ。


かれは自分を責めます。おれはいったいいままでこのインドで、ケーララで、なにをやっていたんだろう? おれは商社マンでなまじカネをいっぱい持っているばかりに、豪華なレストランにばかり食べに行って、メニューなんて下から(値段の高い方から)読んじゃって、贅沢な料理ばかりを食いまくって、たしかにどれもおいしいことはおいしかったけれど、しかしあっというまに出腹ですよ。ったく焼肉のタレじゃないっつーの、あ、それはエバラか。


いやぁ、それにしてもふつうのインド人がふつうに毎日食べている素朴なミールスのこのすばらしいおいしさ! 安い、おいしい、懐かしい、健康にいい。こんなにもすばらしい料理があることに、おれは南インドで暮らしていながらこれまでまったく気づきもしなかったなんて、おれはなんてバカ野郎だったんだろう。誰か無線の信号でおれに教えてくれれば良かったのになぁ、トトトツーツーツートトト、ミールス信号、なんちゃって。


それからというものかれは、階級的なレストランなどには見向きもせずに、街場の食堂を巡ってはひたすらミールスを食べこんでゆきます。さいわい南インドの街にはどこの街のどこのブロックにも一軒や二軒は朝と午後にはティファンをふるまい、ランチタイムにはミールスをふるまう定食屋がある。街の人たちが普段着にサンダル履きで訪れ、店の人と世間話をしたり新聞を読んだりしながらミールスを注文する。ショコラ色の肌の、睫の長い小学生か中学生くらいのコドモが、サンバルのバケツや、ライスのバケツを抱えてやってきて、客のステンレスのお盆にドカッ、ベチョッと盛っていく。おかわり自由。一食30円~50円。(当時の価格です、いまは300円くらいはします)。もちろん客は誰も、右手の親指、人差し指、中指を使って食べます。店の片隅には洗面台があって手洗いができる。食後のお茶は、蚕の糞のような屑茶葉で濃い目に淹れたミルクティー、プラス10円。これがまたなんともおいしい。そう、沼尻さんが惚れ込んだのは安い、おいしい、懐かしい、けっして高みを求めない、そんな街場の気さくな定食屋料理でした。


駐在員の任期が終わり帰国するにあたって、かれの胸になんとも言えない哀しみが生まれます。これまで毎日あたりまえに食べていたミールスが、ティファンが、これからはそうかんたんには食べられなくなる。もはやかれにとってごはんとは、ラッサムの酸味をともなった立体的な味、サンバルの素朴にして力強い香りとともにあってこそ。それらをごはんにかけて、ぐちょぐちょ混ぜて猫飯にして食べてこそ、生きるよろこび。ラッサムもサンバルもないごはんなんて、夢も希望もありません。それは 絶望 の、またの名でした。「せめて」・・・沼尻さんは一冊のレシピブックを買い求めます、インドのピーナツオイルの会社がピーナツオイルを売るために作った活版印刷のブックレットでした。



帰国後かれは、それでも東京のどこかでは必ずや南インド料理を食べられるはずだとおもって、アジャンタ、ナイル、タージと食べ歩くものの、しかしどの店もミールスもティファンも出していません。ミールスが食べたい。なんとしてでもミールスが食べたい。しかし時は1980年代であり、00年代後半以降とは時代が違います。沼尻さんがどれだけ望もうとも、南インド料理専門のレストランも食堂も、東京に一軒も存在しませんでした。


しかし、かれはあきらめない、もうこうなったら自分で作るしかない。かれはインドで買い求めたレシピブック片手に、アメ横の大津屋や、五反田のアローラさんのマンションに行って、食材を買い求め、インド料理の試作を重ねてゆきます。しかし、当時はいまとは違ってなかなか食材が手に入りません。豆ならマスール、ムング、チャナ。スパイスもヒングはたまに入るくらい。乾燥もののカレーリーフも年に数回くらい入ってくる程度。しかも当時の乾燥ものは質が悪い。コリアンダーリーフが手に入るようになるのもようやく1990年代半ば、東急の地下に入るようになってからでした。


しかも当時は日本にインド料理の知識も乏しかった。クックブックにテンパリングと書いてあっても、その意味がわからない。わからないわからないって頭を抱えているとだんだん頭にカッカカッカ血が上っちゃって、そのテンパリングじゃないっつーの。むろんいまならマニアはみんな知っています、テンパリングとは、料理の仕上げのときに少量の油で(ときには豆を炒め)スパイスの香りを移し、その香りをまとわせた油をジュッと料理に注ぎ香りづけすること。しかし当時はその意味を知るまでには長い時間が必要でした。それだけではありません、チャナダルが皮なし(の、チャナ豆)のことであり、チャナと呼ぶときは「皮つき」のことであること。ウーラッドダルも同様に皮なし。ウーラッドと言うときは皮つきであることを知るにも長い時間がかかったものでした。当時はなにも知らないゆえかれは、ウーラッド(皮つき)でワダを作ろうとして何度となく失敗します。なぜ? どうして? あのふかふかのワダができないのだろう? 



もはやとうてい商社マンの趣味とは言えない情熱です。かれは鍋のなかのダルをかきまわしながらつぶやく、こうしておれがうちで料理ばっか作ってると、また第一夫人から叱られちゃうんだよなぁ、しかしね、おれだってね、備えがありますよ、第一夫人が怒りかけたら、その瞬間にね、
おれ、先手取って、和田弘を気取って歌っちゃいますよ、「ダルより~も、ダルよりも、きみ~を愛す~♪」なんちて。あ、若い人はマヒナスターズも松尾和子も知らないか。


そんなふうにかれはレシピブックと格闘し、インドでの味の記憶を頼りにラッサムを、サンバルを繰り返し作り、トーレンを作り、ワダを揚げ、少しづつ自分の南インド料理の世界を作り上げてゆきます。そこにはひじょうに情報の少ないなかで手探りで南インド料理を追い求めるよろこびがあり、何度となく失敗を重ねながら、料理の質を高めてゆこうとする、その精神のゆたかさが息づいていて。そして、あっというまに二十年の時が経っていました。


この人はいったい何者でしょう? この人の名は沼尻匡彦。沼尻さんは2000年からインターネットを利用して仲間をつのり、実費のみの会費制食事会グルジリを主催するようになります。もちろん料理長は沼尻さん。おもえばそれはふしぎな光景でした、当時アマチュア料理人だった沼尻さんの料理を、参加メンバーはせいぜい700円ほどの実費を払って、公民館や集会所に集る。サラリーマンも、IT関係者も、フリーランスも、家族連れも、学生も、インド人も、ふだんなかなか出会わないような顔ぶれが買い出しやら調理やらを手伝いながら、できあがったミールスをみんなで盛りつけ、知らぬ同士がわいわい語り合いながら、いただく。いいえ、ラッサムもサンバルもサブジもクートゥも、みんな沼尻さんの料理でもって、あ、おいしい、へぇ、こういう料理があるんだ、と興味をもってゆきました。沼尻さんはむかしから揚げ物が上手で、山菜のインドふうてんぷらなど、センスのいい料理で、みんなをよろこばせたもの。さらには現なんどりの稲垣さんも当時は会社勤めのシステムエンジニアで、沼尻さんとともに調理を分担するようになってゆきました。ベンガル・サトウもまた大事な調理補佐でした。食事が済めば参加者みんなで手分けをして洗いものをした。洗いものさえもが人を幸福にすることができたもの、そこに沼尻さんがいたから。


いつのまにか沼尻さんは本業の商社マンとは別のもうひとつの人生をも生きるようになっていました。こっちの方の沼尻さんは怪しいおぢさんと呼ばれ、あるいは南インド料理界の水戸黄門と呼ばれ、東京を中心にしながらも、時には北は北海道札幌から、南は九州博多、沖縄まで行脚する、さすらいのアマチュア料理人になっていった。どこの地域から呼ばれても、代金は食材実費と、交通費のみ。謝礼は断固受け取りません。おもな場所は、公共施設。ときには鮨屋や、ジャズクラブ、呉服屋の催事でも。どこかに南インド料理を食べたい人がいれば、沼尻さんはそこに駆けつけ、料理を作る。やがて神戸、沖縄、九州、神戸、大阪、仙台、北海道などそれぞれの地域で会場を借りてくれる支持者たちも生まれてゆきます。こうして食事会グルジリは2000年から2008年7月そうそうまで、260回開催され、参加メンバーは延べ4000人にのぼった。



また、この時期の沼尻さんの功績といえば日本におけるカレーリーフの生育と販売があります。南インド料理の香りの表現に欠かすことのできない、緑の葉っぱカレーリーフは、もともと気候風土の違いから日本での栽培は無理と言われていたものの、しかし沼尻さんは負けません、沖縄の契約農家とかけあって、(私利私欲まったく抜きで)栽培を成功に至らしめ、しかも一時はそれを秋葉原の吉池屋で販売していたもの。沼尻さんは、1円の儲けにもならないにもかかわらず、
そのプロセスをたのしみ、フレッシュカレーリーフの普及をよろこびました。日本の南インド料理好きは、沼尻さんに足を向けては眠れません。


これから先の沼尻さんの人生の軌跡が超おもしろいのですが、しかし、それについては別稿でお話しましょう。



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