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観無量寿経の教え その2
今回は、阿弥陀如来・観世音菩薩・大勢至菩薩を、精神を集中して観る、定善の十三観の後半について考えます。
第7の「華座観」では、極楽浄土の宝の池に咲く、蓮の花を想い浮かべます。これは、阿弥陀仏や観音・勢至菩薩の台座にもなりますし、自分が極楽浄土の生まれ変わるときは、この蓮の華の中に生まれます。
まずは、極楽浄土の宝の池に咲く、大きな蓮の花に集中し、花びらの一枚一枚が、多様な宝玉の光を放つのを観ます。次に葉脈に光がありありと観えるように精神を集中します。この蓮華は小さな物でも二百五十由旬という大きさです。この蓮華は、仏の台座になります。この台座からの豊かな光は、人々を救う仏の力を示します。この瞑想では、一つ一つの花弁などの細部に集中します。これが出来れば、極楽往生が出来ます。
第8の「像観」では、心に仏の像(姿形)を描きます。ここで大事なことは、仏は法界(森羅万象)の至る所に存在し、万物に遍く現れるから、私達が心に描く、イメージにも入ると信じることです。このように心に仏を描くとき、その心に応じて、仏は三十二相・八十随形好を表します。
極楽の無量寿仏を拝みたいなら、仏が蓮華の上に座り、金色に光り輝いている姿を心に描きます.これが見えるなら、心眼を開くことができます。
この心眼で、極楽浄土の色々な様子が見えたら、仏の左右に同じ大きさの蓮華を描き、観音・勢至の両菩薩が光明を放つ姿も見ます。この想を修行すると、極楽の水の流れや鳥の声も、全て尊い仏の教え(法)を説いていると聴きます。さて、こうして聞こえた教えは、行が終わっても忘れてはいけません。そして他の経典と照らし合わせ、合わなければ妄想です。合致すれば、大まかには極楽世界を見ることが出来たといいます。
第9の「真身観」では、無量寿仏の真の姿と光明を観じます。無量寿仏の高さは六十万億那由他恒河沙由旬と言う、人の智慧で想像も出来ない大きさです。眉間の白毫は右回りの渦を巻き、その大きさは須弥山を五つ合わせたぐらいです。この仏から広く広がる光明が放たれています。その光の中には多くの化仏がいらっしゃります。これを
光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨(観経文)
つまり、光明は遍く十方世界を照らし、念仏する衆生を、その中に摂(おさめ)取って捨てません。
このような、仏の姿や光明は言葉で言い表すことは出来ません。ただ今までの教えで思念を強め、心眼で観ます。この無量寿仏を観れば、十方諸仏の全てを観たことになります。こうした境地で、諸仏を念じること、揺るがない境地になり、これを念仏三昧と言います。こうして仏身を観ずると、おのずから仏心を見ます。仏心とは、分け隔て無く慈しみ、どのような人でも救う、大慈悲です。
この観法を成就すれば、一切のものは無生と知り、来世は仏の前に生まれる、無生法忍の境地に達します。
さて、無量寿仏を観ずるには、数多くの相好を一度に観るのではなく、眉間の白毫相(白い長い毛)に集中します。この白毫相は、ここから放たれる光が、全ての人を救うことを示します。これが本当に観えると、他の全ての相好も現れ、さらに十方無量の諸仏を観ます。これが「徧観一切色身想」で、遍く一切の仏の姿を観じる法です。これが正観であり、他の瞑想は邪観です。
第10の「観音観」では、観世音菩薩の真の姿を観ます。観世音菩薩は、無量寿仏と同じく、人の智慧では計り知れない大きさで、光明を放っています。この光は、地獄などにも及び、全ての人を救います。
観世音菩薩の相好は、仏とほとんど同じですが、頭頂の肉髻とその高さが仏とは違います。その代わりに、摩尼宝珠の冠を頭に頂きます。
観世音菩薩の姿を観るには、肉髻を観て、冠を観ます。これが出来れば他の相好も自然と観えるようになります。観世音菩薩を観ることが出来れば、全ての災いにあわず、今までの罪も消えます。
第11の「勢至観」では、大勢至菩薩の真の姿を観ます。高さ大きさは観音様と同じく、私たちの智慧を越えます。この菩薩は智慧の光で、地獄・餓鬼・畜生の三途の苦しみを受けている者をも救います。
勢至菩薩の頭頂は紅蓮華の形の肉髻があり、その上に宝玉で出来た水瓶があります。この水瓶には、仏の全ての働きを映す光明が入っています。
勢至菩薩を観れば、今までの罪を除き浄土で安らかに暮らせます。
この観が成就すると、具足して「観音・勢至菩薩を観る」と言います
第12の「普観想」は、極楽浄土に自分が往生するのを観ます。極楽の蓮の華の中で結跏趺坐していると想いをなします。まず蓮の華は閉じて、つぼみの中に包まれ、目も閉じています。そして、蓮の花が徐々に開きます。その時に五百色の光が体を照らします。この光を受け目を開くと、諸仏・諸菩薩が空中に満ちているのが眼に見え、さらに鳥のせせらぎや水の音が全て、仏の教えを説いています。この教えは、今まで説かれたお経と合致します。
この想を説いて現世に戻っても、この教えは離れることがありません。
これが出来れば「見無量寿仏極楽世界」の観と呼びます。無量寿仏と観世音菩薩・勢至菩薩は、いつでもこの観法を修行する人のところに来ます。
第13の「雑想観」は、これまでと異なり、普通の人が極楽浄土に往生するたえの観法です。心から、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれたいと思うなら、寺などにある仏像の姿が、極楽の池に咲く蓮華の上にあると思います。第9の観法などで見たように、仏の真実の大きさは、私達の心では、見ることが出来ません。しかしながら、如来の本願により、仏の像を拝むだけでも、無量の功徳があります。
一方、阿弥陀如来の力は、どこにでも自由な大きさで、その金色の姿を現します。従って、このような仏像の姿を借りて、瞑想しても力を与えて下さります。また、観音・勢至の両菩薩も同じ背丈で現れます.両菩薩の見分け方は、頭上に宝冠と化仏が観音様で、宝瓶が勢至菩薩です。阿弥陀様や両菩薩の力で一切衆生を救う、これを観るのが、雑想観です。
この部分の教えは、第7の華座観~第12の普観想では、自力で計り知れない力の仏を観ます。ここでは、正しく観るために、他のお経などとの照らし合わせも求めています。
最後の雑想観では、仏の力に助けられます。ここで、他力の救いへの道も開かれます。
観無量寿経の読み下し文は、如何にあります。
仏説 観無量寿経 - WikiArc
また、角川ソフィア文庫の「全文現代語訳浄土三部経:大桷修訳」は、色々と参考に成りました。