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今こそ法華経を生かそう

1.現在の日本は西洋文明の行き過ぎ?

現在の日本社会は、特にアメリカの影響を受け、西洋文明的な科学的思考の影響を置く受けています。法による支配、行き届いた学校教育、個人の尊重、市場による競争原理、社会は進歩してきたと言う歴史観など、多くの価値観を欧米諸国と共有しています。 

しかしながら、アメリカ式の市場的な競争原理と、個人主義の行き過ぎで、格差が大きくなっています。格差の理由は、大学教育が普及したことにも一因があります。西洋文明の科学的な大きな成果は素晴らしい。これを効果的に伝える、学校教育の理論的知識は大きな力があります。しかしながら、このような理論的な結果は、ある種の理想化した結果であり、多様化した現実に適応できないこともあります。例えば、会社経営の善し悪しを、会計学などの色々な数値で評価することもできます。これは投資家にとって、便利な尺度です。しかし、この数値では、社員のモラルや技の蓄積などは見えないことがあります。このような見落としの危険性を忘れてはいけません。

また個人の尊重の裏側には、『自己責任』という側面があります。しかしながら、自分の力でどうしようもないことも多くあります。一般的に、西洋文明には

「自分の見える範囲はきちんと行う」

と言う発想があります。この裏側には、見落としの危険性や、考慮から排除された人などがあるのです。

「古代ギリシャの時代から、民主主義はあった」

と言われていますが、ギリシャの人々を支えた、奴隷制度を忘れてはいけません。現在の知識人には、このような『奴隷の人権』を見落としている人もいるようです。このような西洋文明の、見落としたモノをもう一度考えるときが来ているようです。

このため、欧米的な理論成果を実現する、個人的な能力発揮と、多様な人を受け入れながら、皆を生かす親の立場での行動が有効ではと言う考えがあります。

最大多数の最大幸福

と言いますが、その範囲はどこまででしょう。現在の社会の問題は、現在から未来までつながっていることを忘れてはいけません。ここまで見る智慧が必要なのです。

2.日本の親的な立場に儒教の影響


しかしながら、日本人の心の底に、流れている考え方として、儒教的な精神があります。儒教的な発想では

親に孝行
師に礼儀

と言うような、序列がつけば、無条件での服従関係を強調します。
このような

立場さえ決まれば相手に服従を強いる

と言う発想は、

「非正規の人は、正社員の言うことを聞け」

と言うような、実力はなくても支配する関係の一つの原因になっています。序列を着けて、上位に立てば全てに優位という考えになります。

二つ目の儒教の悪影響は、「易姓革命」と言う考え方です。これは、

支配者は天が『徳がある』と認めたから、天に代わって支配
しかし
天が『徳がなくなった』と判断したら支配者交代

と言う考えです。中国の王朝交代は、このような考えで行っていました。この発想を裏返すと、現在の支配者は

前の支配者の『不徳』の様子を民に知らせる

必要があります。これが自分の支配を正当化するのです。このことが分ければ、韓国が

日本の植民地支配時の悪行

としつこく持ち出す理由も判るでしょう。つまり

「どんな失政をしても、日本の植民地支配よりは徳がある」

と言いたいのです。

このような、『相手の不徳』の追求は、日本の野党にもよくありますね。

「代替え案を出すより、政府の不徳を追求する。」

ことで政権が取れると思っている人もいるのでしょう。

儒教の困ったところが、もう一つあります。それは、

古代の聖人が行った政治を理想

と言う発想です。具体的に言えば、孔子が論語を説いて、孟子がそれを解説してから、千年以上たった朱子ですら、孔孟の教えを理想としています。つまり

古いものがよい

のです。

この発想では、

社会制度が進歩しても
新しい考え方で
あるべき姿を考え

ません。つまり

社会の進化を受け入れない

のです。この点で、儒教文明は西洋文明に致命的に負けたのです。

3.現在に必要な法華経の教え

現在は、多様化の時代です。色々な立場の人が協力する必要があります。そして複雑さの時代でもあります。便利な時代ですが、様々なところに繋がりがあります。そのため、色々と考える必要があります。このような多様なモノの関わりを、私たちが学んできた、西洋文明を主体とする、学校教育の知識だけでは対処できないことが多くなっています。学校で学ぶ、理想的な社会像は、一つの切り口を示しても、実際に実現するためには、客観的に見ながら、その場面に住み込む、主体的な取り組みが必要になります。

このように、

客観的に見ながら、しかも我がこととして考える

姿勢の一例は

親が子供を見る

姿です。
しかしながら、親子関係と言えば、直ぐに儒教の

親に孝行

と言うイメージで考える人がいます。『儒教的な親』は、立場で支配しようとします。しかし、ここで求められているのは

全体を見通して慈しみながら見る

親の立場です。

この実例が、法華経の方便品第二にある、

全てが我が物であり、その中の衆生は皆我が子

と言う親の立場です。このような親の視点なら、客観的に見ていても、自分のことと主体的に見ます。

さて、法華経では、世の中の諸々の法の実相は、色々なモノが関わっていると教えています。これを十如是の教えと言います。そのような難しい実相は、仏の智慧だけが知ることができます。そのような仏の智慧を、私たちも手に入れることができる。これが大乗仏教、特に法華経の教えです。

さらに、法華経の教えでは、法を説くお釈迦様は、久遠の寿命があるので、今でも私たちのことを見ています。これはとても大事なことです。前に

儒教は古代の聖人を理想

と言いました。このような永遠の寿命がないなら

「お釈迦様が生きていたときに、
教えを聞いた者だけが、
本当の教えを知っている 。」

と言う人が出てきます。しかし、仏が久遠の寿命を持っているから

その場その場に適した教えを説く

のです。儒教にあった

社会の進化に目をつぶる

姿勢は、法華経の教えを、本当に理解し信じた人には、あり得ないことです。

仏はその時代時代に合わせて教えを説く

これを信じないといけません。

これは、法華経が、お釈迦様の現世での姿と言われる、シッダールタ太子が亡くなった後、数百年後に成立したことと関連しています。法華経の前に、上部座仏教や、唯識や空論などの権大乗の教えが説かれました。これを、全て

「生身のお釈迦様が説いた」

と主張するのは、色々な点で無理があります。しかし、

久遠の寿命がある仏様が
しかるべき高僧の口を借りて説く

ならば、その時代時代に合わせた教えが当然出てきます。

こうして

大乗仏教は社会の進化に併せて教えを説く

ことができるので、儒教の硬直した欠点を排除できます。

4.天台大師が法華経の実践を説く

仏は、親が子供を見るように、衆生のことを見ています。このような智慧を、私たちも身につけることができます。これが法華経が説いたことです。しかし、どのようにしたら『智慧』を、身につけることができるでしょう。

この答えは、6世紀に随の国で、天台大師智顗が、摩訶止観で説いています。現在の日本では、瞑想法としては座禅が有名ですが、天台の止観行は、禅定を得るための手法が体系化されています。

摩訶止観が説く『円頓止観』が、仏の智慧を得る実践です。これをもう少し、親子のイメージで考えてみましょう。子供を遊ばせる時に、その準備として場所を設定しますね。また、どのような遊びをするか想像します。ある程度の見通しができますから、子供が遊んでいるとき、危なくなりそうなら注意します。このように

一度全体のイメージを作り
その上で色々な動きを考える

ことが親の智慧です。

円頓止観は、

仏が造る法界に心を止めすべてを観る

修行です。これは、親の知恵を実践する修行法です。自分がその世界に浸かって、全てを感じる。その上で色々な動きを見る。この時、その世界を造った、仏様の立場で見ると、色々な可能性も見えてきます。このように仏様の立場で客観的に見る、しかし自分の子供のことと主体的に考える。このような姿勢が現在求められているものです。

なお、仏様は衆生を子供とみていますが、その衆生がいずれは仏になると言うことも知っています。子供だが、軽く見ることはありません。更に、仏様は永遠の命を持って今も私たちを観ています。そのため新しい科学的な成果なども自分のものとして、現在に合わせて導いてくださいます。

このような考え方が、現在の私たちに一つの道を示すと思います。

5.法華経以前の仏教 小乗 

法華経までの、仏教の教えには、大きく分けて小乗の教えと、権大乗の教えがあります。なお、近頃は『小乗』は差別語だと言うことで『上部座仏教』と言う表現を使いますが、悟りの状況を示すためには『小乗』という表現が適当と思います。

小乗には、声聞と縁覚の二つの段階があります、声聞とはお釈迦様の教えを聞いて悟りを開き、縁覚は仏様とのご縁を感じて悟りを開きます。

お釈迦様が生きた時代を、私たちは直接経験することはできません。しかし現在ある物の多くは、当時は存在しなかったことを、思いやることは大事です。お経を伝えると言っても、紙が発明されたのは、中国では漢の時代です。古くて紀元前4世紀としてもお釈迦様より後の話です。木を削って木片に書くことも行われていましたが、その木を削るための、刃物はどうしたでしょう。鉄の道具は、すでに広がっていますが、現在のように簡単に刃物が手に入るわけではありません。

また、私たちは水は、水道のレバーを操作すれば出てくる物と思っています。しかし、一昔前は井戸から汲みあげる必要がありました。さらに昔なら、川や池に水汲みなど色々と働いて、水を手に入れたのです。このような不自由さを想像してください。

そこで、「生・老・病・死」と言う苦しみがあります。生きていくことだけでも苦しみ、更に老いたり、病気、そして死があるのです。もう少し注意しておくと、昔は火葬にするための燃料を手に入れることも大変な苦労です。また、土葬にするために掘るための道具も貴重品です。現在のような、丈夫なスコップや鶴嘴などはないので、深く掘って埋めることも難しいのです。

我が国の平安時代でも、

「鳥辺野の野に死体をさらす」

風葬が多くありました。つまり、死体を見る、しかも腐乱して白骨化していくところまで普通に見ていたのです。一方、私たちには医学の知識があり、体の内蔵や筋肉の構造を知っています。しかし、当時の人たちは、死体が腐乱して、皮膚が破れて出てくる腐ったものが、自分の体内にあると思い込むこともあったでしょう。

このような苦しみに対して、お釈迦様は、「苦・集・滅・道」と言う、四諦の教えを説かれたと、声聞の人たちは、信じて修行しました。

  • 苦諦:この世の中で生きていくことは苦しみである

  • 集諦:苦しみの原因は、人の煩悩である

  • 滅諦:苦しみの原因の煩悩は、滅ぼすことができる

  • 道諦:苦しみを滅ぼす具体的な道がある

この苦しみを滅ぼす具体的な道をもう少し言うと

不浄・苦・無我・無常

です。この教えの要点は

人間の煩悩は汚い体を表面の美しさでごまかすことで
惑わされているから起こる

ということで、自らの体の実態とまり汚さ(=不浄)を知り、その上で

「今生きている世界は、苦しみが多い。
しかし自分の体も白骨化するので、我というものなく、
常にあるものはない。」

と言う、いわば諦めの境地に入れることを、救いとしました。

そのための修行法の一つは、死体の腐って白骨化する姿を、想像する瞑想法です。これを、不浄観と言います。禅の修行の初期に不浄観が入っていました。このような、教えを聞いて煩悩を抑えることができる人々を、声聞と言います。

さらに、教義が深まってくると、因果関係などから

一切のものは実体がない
一切は空

と言う風に、悟るという教えも出てきます。これを自力でやり抜くのが、縁覚という境地です。

しかし、このような上部座仏教の教えでは、個々人が修行して、解脱しないかぎり救われません。

6.法華経以前の権大乗の教え

声聞や縁覚の人たちは、自分が修行することで救われます。しかし、世の中には多くの人がいます。他人の利益まで考える、大乗の教えが必要になりました。

小乗の教えでは

一切が空

と言う風に

「憎しみなどの実体はない」

と悟っていきました。しかし、多くの衆生にとっては、今直面しているモノがあります。これは

実体のない「仮」

のモノであっても、無視できません。これに正面から向き合い、皆の苦しみを救うのが菩薩の救いです。この教えでは、小乗の教えと異なり、現状を認めた、

常・楽・我・浄

でもそのまま仏の道には入れると説きました。

このため、人間が物事を把握するための『識』について、五感に加えた意識に加えて、西洋文明で言う潜在意識に相当するマナ識、そして前世などからのすべての体験が蓄えられているアラヤ識まで考える、唯識の教えや、『空』と『仮』を併せ持つ『中』の教えが説かれました。

特に、唯識の教えは、私たちの心を以下のように分けます。

・表層的な部分
  前五識:五感(目・耳・鼻・舌・身)から受け取る
  意識: 思考をこの舞台上で行う
・深層的な部分
  マナ識:アラヤ識の情報を自我で選択したモノ
  アラヤ識:今までの体験など全てが入っている蔵

このような心の深層は、西洋文明では一九世紀末にフロイトが見いだしましたが、仏教では既に三世紀頃に、このような意識していない深層の働きを、ヨーガなどの実践を通じて、掴んでいました。更に、唯識は、このような『識』の働きを、『智慧』に転じるように教えています.例えば、マナ識は他人の考えも大事にする、『平等性智』に昇格させます。

しかしこれらの教えは、菩薩になり多くの人を救う大乗を目指しましたが、まだ途中と言うことで、権大乗と言われます。

7.本当の大乗である法華一乗

法華経は、今までの権大乗よりも、遙かに大胆な教えです。まずは、その内容を味わってください。

まず、すべてのものの本質を次のように、多面的に捉えます。これを、十如是の教えと言います。

方便品第二

諸法実相。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

『現代語訳』
現在存在するものの真実の姿は、外見(相)、構造(体)、潜在的な力、働き(作用)、直接的な原因、間接的な縁、直接的な結果、広く絡んだ報い、これらすべてが絡み合って一体化したものです。

このように、現実世界の存在を、因縁果報の絡み合いとして、複雑さを真正面から受け止めています。現在の複雑系システム論が問題にするような世界観です。これを、鳩摩羅什が法華経を、漢文に翻訳した4世紀に既につかんでいるのです。

さて、このような複雑な真実を知ることは、仏の智慧が必要です。しかも、法華経は、このような仏に皆が成れると説いています。

方便品第二などから欲令衆

諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見。使得清浄故。出現於世。欲示衆生。仏知見故。出現於世。欲令衆生。悟仏知見故。出現於世。欲令衆生。入仏知見道故。出現於世。舎利弗。是為諸仏。唯以一大事因縁故。出現於世。

『読み下し』
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事因縁を以ての故に世に出現したもうとなづく。

つまり、仏様が世の中に出現したのは、衆生の中にある、仏の知見を開き、示し、悟らせ、それを実行する道に入れるためです。これは、今までの教えではない、画期的なものです。今までの大乗では、他人を救うと言っても、仏より一段階下の菩薩の立場になることが精一杯でした。しかし、法華経では、すべてを知る仏の智慧を得ると、説くのです。

もう一つ注目してほしいことは、「清浄なることを得せしめんと」の一節です。これは、上部座仏教などで教えていた「自分の体の中には膿などがたまっている」と言う、「不浄の教え」を、否定したものです。法華経の中では、色々なところで『清浄』と言う言葉が出てきます。『六根清浄』『真観清浄観』等の言葉は、自分のことを清浄と、前向きに受け入れることの大切さを説いています。これは、上部座仏教などの『不浄』で煩悩を否定していく、そして自分自身も否定していく教えとは、根本的に異なります。

さて、このような仏の智慧とは、どのようなものでしょう。方便品には次のような一節があります。

欲令衆から続き

今此の三界は 皆是れ我が有なり 
其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり。

つまり、世界のすべてを自分のモノとして見る。そこで生きている全ての衆生は、皆我が子である。このように、全てを見通し、親の立場で考える。これが仏の智慧です。十如是の複雑な世界の有様を全て見る。その上で、皆の幸せを考える。これが仏の力であり、それを皆にあると説いているのです。

自分を、不浄のモノとして小さく閉じ込めることはない。全ての人の幸せを考える力がある、このように説くことは、ある意味過激な教えでした。従って、法華経を説いたときには、多くの人が迫害を受けています。

私たちでも、

「自分はこんなもの。分を知らないといけない。」

と小さくまとまっていることがあるでしょう。その逆に、

「政治が悪い」
「経営者が悪い」

と人に責任を転嫁している人もいますね。このような姿勢でなく、主体的に考えましょう。これが法華経の教えです。

さて、民主主義の考え方として

最大多数の最大幸福

と言う考えがあります。ここで大事なことは

どこまで考えての最大多数か?

と言う話です。自分だけではない。身近な人だけでもない。全ての人を考える。もう少し言えば、現在に生きている人だけではありません。未来に生きる人のことも考えて、その全ての人にとって、最大の幸せを考えるのです。

古代ギリシャのアテネの民主主義は、奴隷制度の上に成り立っていました。当然ながら、彼らの考える『人間』には、奴隷は含まれていません。仏の教えでは、このように人間の範囲を狭めることはありません。それどころか、動物や草木にまで、仏の力が及ぶと考えます。

このような、従来の権威にも逆らう教えは、今までの伝承から出てくるとはいえません。これに対して、法華経は素晴らしい解決を出しています。それが、寿量品第十六が説く世界です。

寿量品第十六から

仏は、実は久遠の命を持っている。しかし、いつもいると思うと、ありがたみがなくなり、必死で教えを求めようとしない者が多い。そこで方便として、死んだと見せるのである。本当に信仰のある者には、今でも霊鷲山で、仏が法を説いている姿を見ることができる。

この教えで、法華経を信じる者は、実際に生きた「お釈迦様の寿命」から解放されました。また、仏の寿命が永遠で

現在も法を説いてられる
ならば
その時々の状況に合わせた教え

が説かれます。

儒教では、

「古代の聖人の政治が理想」
と言う風に
「進化できない教え」

がありました。

一方、西洋文明は

進化論の教育を神学と別とする

という風に信仰と科学が分かれました。

このことを考えると、「仏の永遠の寿命」の重さがよくわかると思います。

8.円頓止観こそ複雑な現在に必要

さて、法華経は

私たちが将来仏となる

ことを保証してくれます。つまり

私たちも仏の智慧を自分の物とすることができる

のです。 

これを実際に体験するための修行が、6世紀の随で天台大師智顗が説いた『円頓止観』です。ここで、『頓』というのは、『頓悟』という言葉が示すように

今までの自分を飛び越えた悟り

を示しています。

次に『円』ですが実は、天台大師は、『円頓止観』の他に『漸次止観』・『不定止観』の二つのを示しています。『漸次』というのは、段階を踏むと言うことです。一方、『不定』というのは、色々な症状に対応した悟り方です。これと比較し『円』は

いきなり全体すべてを掴む

と言うことです。十如是の教えにあるように、現実の世界は、色々なものが、因縁果報の関係で、絡み合っています。西洋文明の物理学のような、単純な因果関係だけでは説明することは難しいのです。例えば

「卵が先か鶏が先か」

と言う議論でも

「鶏が卵を産むことから始まる」

等と割り切って、順序つけていくのが西洋文明的な思考法です。一方、仏の智慧は

「卵と鶏を一度に見て全体の関係を見る」

のです。このように、すべてを観ることが大事です。 

次に、『止観』という言葉ですが、皆さんは『(座)禅』と言う言葉の方を、聞いたことがあるでしょう。止観は座禅を含みますが、もっと広い修行法です。『止』は、心を仏の作った世界である法界に集中し、『観』は、法界をすべて観る働きです。

ここで大切なことは、法華経で説いたように

仏は親の立場ですべてを造り観ている

ことを自分で体験することです。

複雑な現実を、そのまますべてを観る。その場面に登場する人や物を想像する。その一つ一つの性格を思いやる。そうしてそれらが動き出す場面を想像する。これは、どちらかというと、科学者より小説家などの芸術的なセンスに近いでしょう。しかしこれができると、複雑なシステムを理解する切り口になるのです。


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