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洋才の限界を考える
ここしばらく書いてきた
一極集中問題
都市と村の比較
に関連して
和魂洋才
の見直し問題がまた出てきました。つまり
洋才が作った都市
が本当によいのかという議論です。確かに
都市に住むとサービスが充実
ブラックボックスが多くなる
例えば
水道の水供給は当然と思い
水資源確保の苦労など見えない
と言う問題点があります。
確かに現在の私たちは
教育やメディアの情報提供で
水資源問題を知っている
ので少しはましです。しかし西洋文明でも
19世紀末のパリでもセーヌ川に汚水を流す
その川から飲料水を得る
パリの水の歴史|パリの文化・歴史|パリの歴史・文化|パリ観光サイト「パリラマ Paris-rama」
等の状況でした。これに対して
江戸には一応上下水道があった
と、和魂漢才時代の発想の優位性を、指摘しておきます。
つまり、医学や機械工学などで
西洋文明に圧倒
されて
洋才の導入
に明治政府は走りました。しかしながら
都市計画などに見る洋才の限界
をきちんと評価しなかった。
特に
教育勅語的教科書押しつけは
与えられた知識を疑えない
状況になります。更に
学歴マウンティング
の弊害も出てきます。
こうした
洋才の限界を見た議論
が現在必要だと思います。