和魂なき洋才の弊害
明治以降の日本社会では、急速な
洋才の導入
が進みました。そこでは、建前としての
和魂洋才
が叫ばれましたが、実際の所
洋才の説明力が強く
和魂はあやふや
と言うのが現状でした。そのような場面で
和魂とは何?
と質問したら、どのような答えが返るでしょう?
武士道?
古事記など神道?
等がでるのではと思います。
さて、この問題について、私の考えは
和魂漢才に戻れば
本質が見える
です。ここで大事なことは
洋才は完成度が高くそれだけで閉じる
漢才は現実体験との融合が必要
と言う点です。例えば、西洋文明とした入ってきた、自然科学などは
教科書で理解できる
(洋才で閉じる)
レベルに体系化されています。一方、漢才の場合は
論語は断片知識
自分の体験で再構成
(和魂で実体験)
という風に
体験を通じて自己の魂の上で育てる
必要がありました。例えば、論語を読んでも
自分なりの孔子像を魂に造り
その孔子像の発想で現実に対応
と言う力を作り上げる必要がありました。
一方、洋才なら
教科書が当てはまるならその通り行動
で無事対応ができます。この場合
本質を理解しなくても
表面的な教科書どおりの動き
で対応できる場合が多くなります。
そこで、惰性で動く状況も出てきます。
しかしながら、本当に難しい問題に対応するなら
魂のこもった力
が必要になります。これを戦争指導という面で考えると
明治期は戊辰の役から西南戦争
そして日清日露の戦争
と戦争が続き
戦いを実体験した指導者
が軍を支配していました。彼らは
実体験の和魂の上で
西洋学問を生かす
ことができました。しかしながら、これが昭和の時代になると
実戦経験がなく陸軍大学・海軍大学の
教科書だけで学んだ人間の指導
になります。つまり
洋才だけで和魂無し
の状況になりました。
さらに、このような状況では
大学の成績だけでの序列
になり、さらに
学歴だけで評価
実戦での適正は評価無し
などの悪弊が出てきました。
この問題は現在にも通じるものが在るようです。