荒神について
このnoteで前に、稲荷心経について書きました。
その後、稲荷心経の前半部分の「荒神四句」について、修験道との関係で、もう少し解ったことがあるので、書かせて頂きす。
まず、修験道では、三宝荒神は役行者が感得した神様です。『什物記』には
「胎内で、胎児の頂にある時は衣那(胎盤)荒神と号す。出胎の時は産土神と名付け、魂神葬所(墓)の傍らにある時は立増神と称す。皆これ大日如来の変化、三宝荒神の応作なり。これを敬えば諸善速やかに来たり、これに背けば諸悪忽ちに起こる。当に知るべし、荒神の妙体は、全く衆生の一念を出でず云々」
とあります。これは、衆生の煩悩まみれと、本来の悟りが、一体と言うことを示す神で
「意(こころ)荒立つ時は忿怒荒神、心静まるときは本有の如来」
です。
これを、人の魂の変遷で見ると
親の胎内では天蓋として胎児を慈悲深く被う衣那明神
生まれた後は命の火を護り
死滅のときは先導する「先に立ちます神」
冥土では倶生神として善悪を明らかにし
転生時には再び衣那明神
と言う風に、現在・過去・未来の三世に渡ります。
これを踏まえて、稲荷心経の荒神四句を唱えると
本体真如住空理(ほんたいしんにょじゅうくうり)
寂静安楽無為者(じゃくじょうあんらくむいしゃ)
鏡智慈悲利生故(きょうちじひりしょうこ)
運動去来名荒神(うんどうこうらいみょうこうじん)
の深い意味が見えてきます。私の解釈は以下の通りです。
私の本体である一念は、仏の性である真如そのものであり、全てが因縁果報で善悪に実体がないという、空の理(ことわり)の中で生きています。そこでは、煩悩を去った、静寂で安楽な本来の姿で生きていく。全てを映す仏の智慧と慈悲の実現として、過去から現生、そして未来に働く神の力を荒神と名付ける。
「荒神」は、文字通り読むと
荒ぶる神
ですが、心静かに、自分の心の中にある
本来の仏の力
を観るとき
荒神は大日如来の実現
と観ることができます。