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日本人は神になれる!

先日書いた
日本に革命はあるか|鈴木良実 (note.com)
から

日本的発想は西洋や中国と違う

という観点で、もう少し深堀しました。

私の考えでは、一番の違いは

日本人は神になれる

です。逆に言うと

西洋人には
神の世界は到達不可能
人間は限られたものしか見えない

という発想があるのです。私たちは「和魂洋才」で西洋人的な教育を受けています。しかしながら、どこかに日本的な発想があります。よくあるのは

XXの神様
神様仏様XX様

という表現です。これは、敬虔なキリスト教徒や、イスラム教などそのほかの一神教でも

神を冒涜する!

とする表現です。イスラム原理主義なら、処刑される可能性もあります。

さて、これは一神教の問題でしょうか?これに関しては、古代ギリシャの哲学者プラトンの「洞窟の比喩」が、明確に否定しています。古代ギリシャの多神教でも

人間は限られ知恵しかない
神の世界は到達不可能

という発想です。

さて、このような「到達不可能」発想は、どこから生じたのでしょう。私は西洋文明の

他民族支配の歴史

が大きく影響していると思います。つまり

支配者の圧倒的優位の発想が
神の世界の到達不可能

になったのでしょう。

この発想は、中華文明に当てはまります。

皇帝の絶対権力は天から与えられた

という発想で、多くの人を支配しました。

さて、日本の「神になれる」発想はどこから来たのでしょう。

この問題を考えるときに、忘れてならないのは

日本は中華文明の辺境の地

という位置づけです。そして、卑弥呼の時代などは、中華文明の支配下で、地域を収める「王」の地位でした。

「皇帝」は世界に一人

が、中華の発想です。

さて、ここで日本には、法華経などの大乗仏教が、入ってきます。法華経の教えは

皆が仏になれる

という、平等思想です。そして、この法華経の教えを、皆に説いた一人が聖徳太子です。聖徳太子の業績は色々とありますが、やはり遣隋使で

日本の天皇を隋に黙認させた

のが最大の功績でしょう。つまり

「皇」の称号を使う
という
中華文明への反乱

を行ったのです。私は、これは隋の煬帝だから、ギリギリ成立したと考えます。理由は

煬帝自身が仏教保護
天台大師に帰依

していたから、法華経の立場で

仏の智慧を得る可能性

を否定しきれなかった。従って、天皇の称号を、黙認せざるをえなかったのでしょう。

さて、その後も日本国内では、大乗文教と八百万の神々の信仰は、うまく折り合いをつけていきます。そして、唐に留学した空海は、真言宗の八祖として、正当な継承者になります。なお、真言宗の教えは

即身成仏

ですから、ここでも、人が仏の知恵を持てると教えています。

また、承久の乱の後、北条泰時が、御成敗式目を作るときにも、華厳経の権威である、明恵上人が

あるべきようは

を知ることができると、背中を押しています。

こうした、神仏の力を持った人間は

親のようにすべてを見る
そしてすべてをよくする

と皆が思います。こうした発想で

今より良くする支配者

を求め、実現してきたのが、日本の歴史ではないでしょうか?

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