多様な可能性に対応する智慧
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仏の智慧をテトラレンマで説明|鈴木良実|note
が、二番目の頁ビューを頂いています。
さて、今回はこのテトラレンマに、量子力学の問題を加味するなどして、もう一歩考えを進めました。
まずは、テトラレンマを簡単に復習します。テトラレンマは、テトラ(=4)が示すように、以下の4つのレンマで考えます。
Aである
非Aである
Aでなく、非Aでない
Aであり、かつ非Aである
私達が普通に言う論理は、上記の1.と2.の両者で、その中間がないと考えます。これを「排中律」と言います。3.の「Aでなく非Aでない」は、両者の間の存在か、絶対的な否定を示しています。一方、4.の「Aでありかつ非Aである」は、不安定な状態で、どちらにもなると考えてもよいでしょう。
さて、今回は少し捻って
量子力学の視点
で考えてみました。量子力学で有名な「観測問題」では、上の「Aかつ非A」が、あり得ます。有名な「シュレディンガーの猫」は、
生と死
のどちらか解らない状態ですが、エヴァレットの多世界解釈では、両方が重なり合っています。
シュレーディンガーの猫 - Wikipedia
観測問題 - Wikipedia
ここで全てを見通す、仏の智慧で考えましょう。仏の力では
多様な世界の同時実現
は可能です。前に書いたように「藪の中」の「それぞれが犯人」の世界があり得るのです。それを考えれば
猫の
生きている世界/死んでいる世界
の両方を見るのは、簡単でしょう。
さて、このような
矛盾する両面を一度に見る
力には
仏の智慧
が必要でしょうか?
私は、この問題は
現在社会が西洋文明に過剰適応
して
物理学的に考えすぎ
ている結果だと思います。つまり
Aである/Aでない
が明確な物理学の発想が、考え方の模範になっています。しかしながら、人間的要素のある、社会科学や人文科学の分野なら
多様な可能性を考慮
して議論する必要があります。例えば
相手が自分に好意的か?
好意的でないか?
と言う質問でも、どちらの可能性もあるし、状況によって対応が違うでしょう。
こうした
多様な可能性を見る
力は、本来私達が活きていくために、具わっていました。危険の可能性を、意識している、いないかは別として、考えていないと生き残れなかったでしょう。