中華からの文明の咀嚼吸収
昨日は
明治の先人の働きにより日本語で学べる
と言う話をしました。しかし、ここで一つ見落としがありました。それは、仏教伝来からの千年を越える
和魂漢才
の苦労です。私の手元にある、お経の本には、色々な和製のお経と和讃があります。例えば、観世音菩薩を称えるためには
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五
観音経秘鍵
観世音菩薩御和讃
等があります。この中で、妙法蓮華経は、聖徳太子の昔から、日本に田らしたお経で、インドから中国という伝来のお経です。一方「観音経秘鍵」は、弘法大師が書かれた日本製のお経です。これは、和製漢文での記述です。
さて「観世音菩薩御和讃」は、民主の唱える、日本語で書かれています。
こうしてみると
仏教思想を平易な大和言葉で書く
という苦労を、平安時代の昔から、日本人は努力していたのです。
漢文の返り点などによる解読法、さらに和讃のような日本独自の表現、こうした努力の伝統がありました。
これを考えると
和魂漢才ー>和魂洋才
の発想も自然に生まれたと思います。
これは、儒教に関しても
適切な教え方を工夫
して取り込まれない、工夫した受け入れ方になっています。
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