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山本七平を超えるために
昨日のnote
山本七平とは?|鈴木良実 (note.com)
の続きで、山本七平を超えた「日本的発想」を考えました。
私が注目するのは
和漢漢才の見直し
です。私たちは、明治以降
和魂洋才
という言葉には慣れています。しかしながら、それまでに、少なくとも平安時代から
和魂漢才
という言葉がありました。この違いを明確にすると、山本七平の「空気」や「常識」について、見通しがよくなると思います。
幕末から明治維新において
蒸気機関などの文明格差ショック
が
洋才の急速な吸収
を必要としました。そこで
和魂洋才
が叫ばれましたが、漢才と洋才には、大きな違いがあります。それは
洋才はそれだけで完成
です。例えば
蒸気機関は物理学や機械工学で学ぶ
議会制民主主義は模範例を追従
等の形で、「洋才」だけで導入できました。
さて、これを漢才の導入と、比較して考えましょう。
漢才の代表として儒教
を考えると
論語は断片的知識の集まり
なので
自分の魂で孔子の人格再構成
しないと、実用になりません。つまり
和魂漢才は
両者の融合
です。このように考えると
魂の記述である古事記
漢才で書いた日本書紀
の両立も必然という見方もできます。
さて、ここで明治の
洋才導入
は
和魂の納得なし
で行われました。ここで
和魂の部分を山本七平の「常識」
と考えると見通しがよくなります。さらに、こうした
和魂無視で「空気」が暴走
と言う図式と見ると理解が進むと思う。