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水戸学が何故明治で力を失う

昨日書いた、幕末の水戸藩騒動に関連して、歴史上の大転換について、少し議論しておきます。

幕末の、歴史を調べたら

尊皇への水戸学の影響

の大きさを、多くの人は感じると思います。

しかしながら、その反面

明治新政で水戸学が消える

と言う状況について、不思議がる人もいるようです。

この問題に関しては、昨日も書いたように

諸生党と尊攘激派(天狗党)の戦いで
多くの人材が亡くなったから

と言うのが、一つの説明になります。

さて、水戸藩から新政府の論功行賞での人材登用は、なぜなかったのでしょう。

これに関しては、当時水戸藩の『最高権力者』であった

鈴木重義が
「水戸藩には功績なし」
と報告した

のが直接的な理由です。ここで、『最高権力者』という表現は

勅使として藩主を越えた存在

と言う意味合いもあります。言い換えると

皆の功績なしという
汚れ役を自分が背負う

という、家臣としての心意気です。

さて、この「功績なし」について、もう少し理由を考えましょう。

実は、私は鈴木重義の子孫です。そこで我が家に伝わっている

「なぜ華族になれなかった?」
「一族には桜田門外の変等に加わった者がいる。
それらが上に行くのが癪にさわるから、
全て功績なしとした。」

と言う問答があります。

しかし、これはもう少し解説が必要です。当時の人達の本音は

天狗党の残党が功績ありとなれば
どのような報復を受けるかもしれない

があったと思います。本圀寺党は、天狗党の京都への強訴に対して、一橋慶喜の命令で、鎮圧する側に回っています。この恨みを晴らされたら、とんでもないことになります。

また、水戸学の大物『藤田東湖』の子孫の一人は

やり過ぎ報復の武田金次郎

です。このような者が力を持つ危険性は、多くの人が認めていました。
こうして

水戸学も葬る

ことになったのでしょう。



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