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徳川の平和の崩壊

昨日の記事は

宗教対立時の武力排除

でしたが、これをもう少し一般化すると

異なる意見への武力使用

と言う問題が出てきます。これに対して、江戸時代は

幕府および藩主の絶対権力での裁定

に従わせることで、押さえ込んできました。

しかしながら、幕末の黒船来航以降は

開国と攘夷

と言う意見対立を、徳川幕府自体が裁定出来なくなります。

そこで、強権的にでた井伊直弼大老は、安政の大獄で反対者を処刑します。これに対して、水戸藩と薩摩藩の「脱藩浪士」達が

桜田門外で井伊大老の行列を襲撃
井伊大老を殺害

してしまいます。なお、この時の「公式発表」は、井伊大老は「大怪我だが生きている」です。そこで、世論が襲撃の黒幕と見ている、水戸藩に対しても

重症の井伊大老に対し
井伊家への見舞いの使者を出す

と言う事なかれ主義の対応をしました。つまり、襲撃者は自刃や処罰を受けましたが、背後の追及もなしです。事なかれ主義で

襲撃は失敗と
事件を矮小化

して切り抜けようとしました。しかし、大衆は実情を見抜いていました。これで、幕府の権威は失墜し、武力行使への抑えが効かなくなります。

この後の幕末は

お互いの主張に従わないと天誅

と言う殺し合いの世界になります。

これを収集するためには

明治維新の天皇の絶対権威

が必要になります。

この部分は以下の記事に書いています。
明治には国家神道が有効|鈴木良実


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