自らの中の仏を観る
弘法大師空海の十喩の詩には、修行中に見た
仏の姿など
の神秘体験にたいする戒めがあります。
鏡のたとえから
【書き下し】
三密寂寥として死灰に同じければ、諸尊感応して忽ち来訪す
喜ぶこと莫れ嗔ること莫れ是れ法界なり、 法界と心と異况なし
【意訳】
身口意の三密行によ っ て心を静め無我の境地に至ると
諸仏が感応してたちまちに来臨する。
そうな っ ても、 喜んだり興奮したりしてはいけない。
もともと仏の世界と我が心とは同じものなのだから。
_juyushi_08 (sanukikokubunji.jp)から引用
こうした、座禅などの神秘体験で、自分が力を得たと、思い上がり
悟った!解脱した!
と騒ぐ人がいます。これを、禅などでは
魔境
と否定しています。確かにこのような態度は、危ないモノがあり否定すべきでしょう。
さて、こうした「神秘体験での思い上がり」は、論外としても、天台の摩訶止観等でも
仏の世界を瞑想する
観想念仏
の修行法があります。浄土信仰でも、観無量寿経が
瞑想で浄土を描く
方法を導いています。観無量寿経 - Wikipedia
但し、空海の教えは、この上を行きます。つまり
外に仏や浄土を求めず
自分の中に法界がある
が真言密教の教えです。自分の中に、仏の世界全てがあり、それを感じて見いだす、これを修行としています。
このような
自らの中の可能性
を拓いたら、西田哲学の
行為的直観
も実現します。他力で
見せて頂く
発想では、ここまで行かないでしょう。