摩訶止観の瞑想の見直し
天台大師智顗が6世紀に講じた「摩訶止観」は、坐禅等の瞑想について、広く深く説いています。このnoteでも以下の記事を書きました。
禅の境地について|鈴木良実
しかしながら、当時と現在の違いもあります。例えば、禅定の境地について
数息観
不浄観
慈心観
因縁観
念仏観
を説いています。しかし現在では「数息観」を修行する人はいても、他の観法を修行する人は少ないと思います。この理由を考えました。
まず「不浄観」ですが、平安時代の日本でも
死体が朽ち果てる姿
を普通に見ていました。逆に、6世紀の人体の知識は
朽ち果てた姿や
残った骨
でしかありません。一方、私達には
内蔵・筋肉・骨格や神経系
等の知識がありますが、死体の朽ち果てる姿などは、実際に見ることはほとんど無いでしょう。これを考えると
不浄観で欲を抑える
のは、6世紀から平安時代ぐらいまで成立した修行法です。
次に、慈心観と因縁観についても
現在の知識やメディアが6世紀にはない
点を考える必要があります。多くの人との関わりを見ると、自然に慈悲の心が生まれるでしょう。一方、因果関係に関しては、色々な知識と、科学的な思考法の教育があります。
さて、最後の念仏観については、現在の状況は
外見だけは直ぐ手に入る
写真や動画など
ですが、「摩訶止観」が描いている
仏の力を感じる
レベルの「念仏観」については、ほとんど理解がありません。これは、学問方法などで
知識を得る
情報を得る
だけで満足し
出来る人になる
等の方法が伝わっていないことも一因だと思います。こうした
仏の力を感じ
自分のモノとする
瞑想は現在に必要だと思います。