仏教的な認識法
現在社会の私たちは
心と意識
の関係をどのように考えているのでしょう?フロイトなどを、かじった人なら、心には
意識と無意識
があるというでしょう。
さて、仏教の唯識などでは
意:五感と並ぶ感覚器
対象は「法」識:認識し識別する働き
心:一切の法を含む不可思議の境
と考えています。こうした考えでは、認識の働きは
色(外部に存在する物)
ー>受(感覚での受け入れ)
ー>想(今までの蓄積)
ー>行(意志の働き)
ー>識(識別作用)
という、多くのモノが絡まっています。そこで
特定の実体がない「空」
という発想になります。
これを、西洋文明の発想と比較すると
西洋文明の認識は単純化
割り切って理想化
です。幾何学を成立するための
点・線などの理想化
物理学の理想気体
ヴェーバーの理念型
などが、その典型的なものです。
確かに、西洋文明の
割り切った理想化
の成果は大きなものがあります。しかしながら
現実の複雑さ/多様さ
への対応には、もう一度
東洋の智慧
を活かす必要があると思います。
今こそ
和魂洋才
の活用が必要です。