人工知能についての神学的議論(11禅問答の答え)
昨日書いた、禅問答の答え、これが人工知能にできるでしょうか?確かに、解答集を引くだけなら「中国語の部屋」ではないが、人工知能とは言えないでしょう。
しかし、臨済宗などの、禅宗の言うところの
悟りの境地
が何か、それすら明文化できていない現状を見ると、これを人工知能で実現するのは難しいでしょう。
さて、仏教は、禅宗だけではありません。このような瞑想の悟りについて、隋の時代の高僧である天台大師智顗が行った講話をまとめた「摩訶止観」という本があります。
この中では、瞑想して悟る境地を細かく書いています。その一つは
不思議の境地を観る
です。これは、私のような
凡人の考えが及ばない世界を観る
とことです。少し具体的な例を言うと
仏は全ての衆生を我が子と観る
つまり
無数の衆生一人一人に向き合う
と言う力です。法華経を読むと、多くの弟子に対して、それぞれに対応した教え方をしています。
こうした力が自分にあると観る
これが悟りへの道です。
さて、このような力を持って、一つの禅問答へ向き合ってみましょう。
今回取り上げるのは「百丈野弧」という公案です。概要は以下の通りです。
百丈禅師が雲水に向かって説法するとき、いつも熱心に聞く老人がいます。あるとき、百丈禅師は彼に問いました。
「あなたは何者か」
彼は答えます。
「実は、私は人間ではありません。昔、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問に
『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』
即座に
『不落因果――因果の制約を受けない』
と答えました。その答えのゆえに五百回の生まれ変わりの長い間、野狐の身に堕とされました。なにとぞ、正しい見解をお示し下さい」
百丈禅師は即座に
「不昧因果――因果の制約を昧まさない」
と答えます。老人は、これを聞いて、大きな悟りを開き、野弧の身を脱します。
これをもう少し説明すると、従来の仏教の教えでは
因果の縛りから逃れるために「一切空」を悟る
があります。これだと「不落因果」は、自然な答えです。しかし、これを
一枚悟りの野狐禅
と否定して、もう少し深く求めます。不思議の境地を観ると
因果の法則は眩ますことはできない
しかし
全てを観る仏は因果から自由
という感じになります。自分が見ている世界、そこでは偶然に見えても、もう一歩外から見ると、因果関係が見えてくる。さらに外から見ると、原因と思うモノが別のモノで変化していき、因果が崩れていく。さらに外から見ると、もっと大きい因果の流れが見える。これを、観るのが仏の力です。
こうした力が自分にあると知る。
これは、今までの色々な教えが、積み重なってでてきたモノです。
神秘体験でなく顕わになった教えから得る
この可能性は、人工知能でも到達できるのではないかと思います。