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戦後昭和の一本道指導の限界
昨日まで書いた
明治から戦前昭和までの
本質を疑わない教育
の問題は、戦後の昭和にも、軍事を捨てて、経済繁栄という、別の形で起こりました。つまり、昭和の高度成長なども
アメリカ流の工業化
を、単純に進めた結果です。そこでは
通産省の指導
アメリカから輸入した方式
などが、経済成長を推進しました。つまりここでも
教科書のある世界
でした。私は、昭和の40年代末に、大学院の修士課程に進みましたが、そこで
修士の論文は
アメリカの論文をどれだけ読むかで評価できる
だから大学院の成績は英語の読解力で決まる
という話がありました。つまり
研究ですらアメリカの後追い
でした。私は、当時はAIの研究をしていましたが、主要な論文は
アメリカの論文誌
で読みました。例えば、フレーム問題の最初の論文も、Machine Intelligence 4 で読みました。
さて、このような通産省の指導が、行き詰まりを見せた一例が
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)までの
第5世代コンピュータプロジェクト
です。1980年代頭では、まだ、通産省とコンピュータ業界の発想は
IBM計算機に対抗する
という一本道でした。
しかしながら、既に1980年代から、パソコンの文明が、芽を吹いていました。さらに、現在のインターネットの原型のARPANETは1、980年代頭には、200を超えるコンピュータが、接続されるようになりました。この他にも、現在のOSに大きな影響を与えたUNIXも、1969年の生まれで、1980年ごろには、多くの大学や研究機関に広がりつつありました。
こうした変化、特に多様化へ目を向けず
10年計画の大プロジェクト
を実施しましたが、4~5年も経つと
時代遅れの研究
と言う状況になりました。
このような状況では
通産省->経産省の指導
は通用しなくなりました。もう少し言えば
アメリカの模範を追いかけ
と言う発想も通用しなくなります。そこでは
自主的に考えて道を拓く人財
が多く必要になります。本来
平成から令和
の時代には、ここでの政策は
教科書を理解しその上で離れる
必要がありました。これに失敗しているのが、現在の停滞の原因だと思います。