日の下に月花の咲く頃〜在原業平
書く予定はなかったのですが、何故か今、業平を考えています。業平には伝説や伝承地が思いの外多いのですが、それはつまり、それほど人々の心に生き続けた証だと思うのです。
奈良県の天川村、弁財天社のほど近くにも、業平が眠る墓所があります。伝承によると、その地で亡くなったのではなく、入定したと伝わっているのです。入定となれば生半可な人間では行えない印象を持っていますが、私の中では業平と入定はどうにも結びつかず、けれども、その辺りに住んでいた女人の所へ通ったというのは事実かもしれないと思いつつ……
私が知らないだけで、このような話は各地に残されているのだろうなと思うと、相撲をとった宇多天皇にまけない運をもつ、不思議な光を放つ星の下に生まれたのだろうと想像してしまいます。
業平も光源氏のモデル候補のひとりなので、融和抄の方へ書いても良かったし、いずれ改めて書くかも知れませんが、今日は少し肩の力を抜いて軽く書いておきたいと思います。
昨日の高藤の恋で触れた宇多天皇の開運劇の裏には、業平が関わっていた可能性があります。宇多天皇に皇位を継がせようと考えた藤原基経には同母妹の藤原高子がいました。光孝天皇が重体となった時、次の天皇は嫡流にもどって、先代陽成天皇の弟の貞保親王が有力視されていました。母は藤原高子ですので、基経にとっては甥にあたり都合が良いにも関わらず、兄妹の折り合いが悪かった為、光孝天皇の子の宇多天皇を立てたという経緯になっています。
この高子は入内前に在原業平と通じていた為、それが兄妹の不仲の原因ではないかという見解もあります。
自分に有利であるにも関わらず避けたわけですから、そこには相当な事情があったのだろうと考えられます。避けたい状況がたくさんあったのでしょう。
ここでやはり、宇多天皇と在原業平が相撲をとった話が浮かんでくるのですよね。どちらに軍配があがったのか分かりませんが、政治的な権力でいえば、雲泥の差となってみえます。
『伊勢物語』では、業平と思われる男が斎宮の元を訪れ、お互いに好意を持つものの、思いは果たせなかったと伝えます。
しかし、後の言い伝えで、この時に出来た子供が高階家に引き取られたとなっていきます。
事実かどうかは今も不明とされています。
この高階家というのは、藤原四兄弟と同時期に活躍した長屋王という方の子孫になります。長屋王は四兄弟の謀略にかかって自害に追い込まれました。真偽は分からないものの、この高階家との関わりが出てきているのです。
宇多天皇は藤原家が外祖父になるのを食い止めたいと画策したようですが、最終的には藤原高藤が外祖父になりました。
天皇になった醍醐天皇には、母方に宮道氏の系譜が入っているわけですが、あの屋敷近くに宮道神社があり、御祭神は宮道氏の祖先とされる、日本武尊であるというのです。
この日本はたくさんの神々や仏様が守ってくださっている国なのですが、こうやって歴史の流れを読んでいると、手にとるようにそれを感じる時があります。
確かに、こちらの家系の方が良い思いをしている、とか、そういうものもあるにはあるのですが……それだけではない何かが見えてきそうな時があります。
恋多き貴公子、在原業平。たくさんの伝説は今も語り継がれ、1000年の時を超えて人々の心に生き続けています。
もしかしたら業平は、女神ムーサ達から、たくさんのインスピレーションを受け取っていたのでは…
…そんなことを考えながら、業平の歌を眺めています。
世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし