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源氏物語ー融和抄ー石山寺

 紫式部がいつ物語を執筆し始めたのか、実は今もはっきりしていません。夫の宣孝が亡くなった後からというのが有力視されています。
 物語冒頭に感じる奔放さ、大胆な物語の発想と骨組み。ここに私が感じるのは、遠くから宮中のゴタゴタをみて、半ば他人事として組み立てながらも、心が光源氏に寄り添っている、という感触です。
 後半になるほど、色んな意味で様々な事へ配慮しているような雰囲気を感じます。あくまでも、私の感じるところなのですが。その分、人にしろ出来事にしろ、その描写には奥行きが出てくる感じはあります。
 ですから、書き始めは出仕する前だったのではないかと考えています。

 滋賀県の石山寺は、紫式部が藤原道長に請われて物語を書き始めた所と伝わります。ここで、明石・須磨の段のインスピレーションを受けて書き始めたということです。
 私は実際に訪れて、どんなものからインスピレーションを受けたのか、感じてみようと思い出かけました。
 結局、その時には分からずじまいだったのですが、石山寺が大変神秘的な場所であることが、思いがけないことの連続のお陰で知り得ることになりました。それはそれでひとつのお話になってしまいそうなので、ここでは留めておきますね。

 さて、その時には分からなかったわけですが、昨日今日、石山寺の記事の構想を練っていたところ、今朝、庭の手入れをしていると、花山天皇のことが思い起こされたのです。

 その時に続いて思い浮かんだのは、子供の頃、花山天皇の出家する話が古典の問題によく出たなぁ、ということでした。その頃は今ほど歴史の細かい事を知らず、問題を解くのに苦戦していた記憶があります。歴史的事実を把握しておくと、古典の問題を解きやすいのですよね。登場人物が把握出来ていると、ややこしい謙譲語を覚えていなくても、誰が誰に向けて言った言葉かというのが分かると、ものすごく読みやすくなります。それでは古語の勉強にはならないわけですが、そんなことより、歴史と古典の両方に親しみをもてるような勉強法があっても良いよなぁ、等と考え事をしながら作業していました。

 話がどんどんずれてしまいますが、この花山天皇は紫式部の父為時が家庭教師をした天皇なので、同時代の方と言ってよいのです。紫式部は、花山天皇のすったもんだを割と詳しく知っていたのではないでしょうか。そして父が仕えた天皇ですから、好意的に捉えていたのではないかと思います。
 花山天皇というと、西国三十三ヶ所観音霊場を巡って法力を得た方で、石山寺もそのひとつになります。
 石山寺詣では、奈良の長谷寺と共に、当時の平安貴族の間で大変流行していました。

 花山天皇がどのような方だったか、そのエピソードは大変面白く書き出すときりがありませんので、簡単にいうと破天荒な挙動と大胆な女性関係といったところです。そして臣下に騙され連れ出されて出家してしまうのです。光源氏は女官に手を出した事が発覚して、表向きはそれで自ら下向していくので、丸々モデルというわけではなく、さらに須磨・明石の段を書いた頃には、まだご存命だったでしょうから、おおっぴらにそれと分からないように…用いるとするならば…それと分からないようにこそっと忍ばせているでしょう。
 女性問題で左遷されるという筋書きと、その場所には父が赴いたことのある場所を選んだ。そしてその先の明石では、高藤の恋に重なる明石の上との出会いという構想へ向かっていったのかもしれない、と思うととても楽しいものがあります。

 後段で、光源氏が自身で描いた須磨か明石の浦の墨絵を披露する場面があります。これも想像ですが、父為時が赴任中に描いた絵があって、紫式部はそれを見て行ったことのない風景に思いを馳せていたことがあったのかもしれません。案外そのような親子の触れ合いが、物語成立のベースに散りばめられているとしたら、紫式部が筆を走らせる情景が、これまでより身近に感じられてくるのではないでしょうか。

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