茶道を宗教みたいと言われて考えたこと

今日は久しぶりに東京で茶道を一緒に習っていた友人とテレビ電話で会話をした。友人によると、茶道界隈も3月あたりから濃茶は回し飲みをせず一服ずつ点てたり、薄茶も一回の席では茶碗の使いまわしはしない、など新ルールができていたようだ。そして4月は稽古、茶会ともに全て中止になってしまったとのこと。「確かお家元がなんかの雑誌に、今後はそういう新しいルールでやりましょうって書かれたのがきっかけでそうなったんだよね」と彼女がゆるく思い出したように言うと、一緒に話していた彼女の旦那さんが「宗教みたい」と言った。

宗教と言われると違和感を覚えつつも、うん、確かに言われてみればその通りだ。茶道をこちらの友人に説明したときも一種の宗教に近いねと指摘されたことがある。一人の人間がトップに君臨し、その人の一言で下の者が従うルールが変わる、というのはいかにも中央集権的で宗教的に、それも感じのよくない風に聞こえるだろう。

実際、トップの人がこうしようと言わない限り、合理的な判断であってもそのルールを変えることはできないのだろうか?本当にそうなのであれば世間から宗教と思われるのは免れないと思う。経験の浅い私にはその辺りがどれほど柔軟なのか、正直まだわかっていない。

こちらの先生とこんな会話をしたことがある。茶道のデモンストレーションをするとき、濃茶の回し飲みに抵抗を示す人が少なくないという。他人が口をつけた茶椀に口をつけることへの抵抗感もあるが、回し飲みは茶道の精神の一つである”清(purify)"に反しないのか、という反論だ。(そもそもアメリカ人はよほど仲のいい友人や恋人同士でなければ回し飲みはしないらしい。)

そこで私は、回し飲みが慣れないのであれば濃茶を一椀ごと出すのもありなのでは?と聞くと(先生がフレンドリーなのでなんでも聞いてしまう。)濃茶は一椀を分け合ってその場に居合わせた人たちの絆を深める、”一座建立”の意味があるから、その点をなくすにはいかないのだよ。。と当時は譲れない様子だった。

もちろん先生は日本の茶道をアメリカに伝える立場として、一つ一つの本質を大切にされているのだと思う。私の思い付きをすぐに受け入れるわけにはいかないのは理解できる。ただ仮に、今回家元から回し飲みはやめようというアナウンスが出る前に、回し飲みが苦手なアメリカ人のために一椀ずつ点てて出した場合、正しい点前ではない、となってしまうのだろうか。また他の例で言うと、象牙の取り扱いが世界的に厳しくなる中で真(一番格上)と扱われる象牙の茶杓を然るべきときに使わないことは、茶道のルールに反することになってしまうのだろうか。

まだ茶道歴が浅くても、茶道が好きで、私がおばあさんになっても残っていてほしいと思う立場からすると、その点前・道具が本来どのような意味を持っていたかを説明した上であれば、その時代・相手に合わせてルールを変えることはやってもいいのではないかと思う。家元がこう言ったから、と断りを入れる必要なく判断できれば、宗教みたいと言われなくて済むのではないか、と今日ふと感じた違和感を整理してみた。もちろんその判断をするためには勉強が必要だが、そこに大きな勇気はいらないといいな、と思った。

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