茶道は誰のものなのか

茶道を始めて約5年。始めは特別まじめに通っていたわけではなかったが段々と毎週のお稽古が唯一心が無になる場になっていき、自分にとってはすっかりなくてはならない時間になっていた。

アメリカに引っ越しても続けたいと願っていたところ、自宅からそう遠くないところに茶道教室を見つけ、引っ越して2週間後にはこれまでと同じ頻度でお稽古通いを再開することができた。海外では日本人が中心の稽古場が多いと思っていたが、見つけたところは先生含めほぼアメリカ人の茶道教室だった。

英語で茶道を習い、茶事に参加する、というのが初めはとにかく新鮮で、まず日本人以外が長時間正座をしているのを見るのも、美しくお辞儀をするのも、大きな体で茶道具を扱うのを見るのも全てが物珍しく見えた。また、生徒たちの茶道に対する熱意にも「アメリカ人なのにすごいな。。」と圧倒された。来てすぐの頃は、日本の茶道友達にもその珍しさを共有したくて面白おかしく話してしまっていた。しかし、このように物珍しく思うことが自体が高慢と偏見だったことにあとから気づく。

先生は、京都で1年間茶道留学をした経験がある。稽古場の生徒の一人が同じように茶道留学をしたいと先生に相談したとき、先生は当時の思い出をお話しされた。自分が茶道の世界では少数の男性で、しかも見た目も日本人ではないため、茶会では正客(最も上座に座る人。その茶会のゲスト陣のリーダー的存在で、茶会毎にその場で誰か選出しなくてはならない。)を薦められたり、何かと自分を写すように写真を撮られることもよくあったそうだ。嫌なを思い出としてお話されているようではなかったが、どうしても日本で茶道の勉強をしていると珍しいもの扱いをされるよ、という忠告の意味合いは込められていたと思う。実際私が夫を連れて茶会に連れていったときも、男だからという理由で正客を薦められたこともあるので、状況はよく理解できる。茶会ではありがちな光景だ(とはいえ夫はそれ以来茶会が嫌いになってしまった。。。)。

また、先生は、茶道を紹介するイベントを近辺の団体に向けてよく行っている。我々生徒はお茶やお菓子を出したりお点前を披露するのだが、私は一度自分が点前役だったときに、着物を着て、他の生徒の一人にも着せたことがある。先生もお客さんも非常に喜んで下さったが、イベントが終わったあと生徒みんなに向けて先生はこう仰った。「着物は、着なくてはいけないわけではないと思っている。茶道というものが着物を着た人だけがするもの、というイメージをもって欲しくないからね。」と仰っていた。着物が大好きで、稽古仲間にも、着物が着たかったらいつでも言ってね、着付けも教えるよ、と触れ回っていた私は少し窘められたような気分になった。

先生は日本で茶道を学びながら、多少なりとも”よそ者”扱いをされたご経験から、茶道を海外で普及させる者として、茶道を誰かだけのものにしてはいけない、という思いが強いのかなと思った。そして、茶道を真面目に学ぶ人たちを物珍しく見ていた私は、”よそ者”扱いした人達と同じ目線になっていたと我に返った。私は数年茶道を習っていただけなのに一体何様の目線だったのか。

同じ茶道を習う生徒同士、ましてや先生に対して、そこに日本人かどうかという色眼鏡を通して見るのはあまりにもつまらない。どこの国の人だろうが、着物だろうがなかろうが、茶道は誰のものでもなく、学ぶ人にとっては等しく茶道なのだ、と気づかされた。お茶を楽しむ全ての人に、茶道は開かれていて欲しいと願う。

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