「おまえは〝主役〟じゃない」の話
佐藤友哉「フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人」「エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室」「水没ピアノ 鏡創士が引き戻す犯罪」「クリスマス・テロル invisible×inventor」を読んだ。
いや、一言で「読んだ」と言うにはスパンがかなり開いているんだけど…。(フリッカー式は2020年に読んで他は2021年12月から正月までの間に読んだ)とりあえずここまで読んだんですよね。
この四作は今現在星海社が絶賛復刊中ですが、私は過去に古書で手に入れて積んでた分を復刊に先立って読んでいきました。何でだよ。どうせなら復刊を待てよ。(もちろん復刊分は復刊分で買ってます)(斜線堂先生の解説も上遠野先生の解説もめっちゃよかったですね)
93年生まれだしはやみねかおるのオタクだったので普通にリアルタイムでゼロ年代に青春を捧げておかしくないはずのぐるぐるさんだが、ろくに本屋のない田舎で本読みの友人を持たず女オタクインターネットを生きていたせいか、単にクソ天邪鬼だったせいか、講談社ノベルスは「赤い夢の迷宮」しか読まないまま2010年代を迎えてしまっている。はやみねのオタクだったので「赤い夢の迷宮」はどうにかして発売直後に読んだのだ。虹北読んだのもギリ高校のときだったっけ…忘れた…。
そういう次第なのであらゆるゼロ年代的なものに出会ったのはほぼ二十歳以降みたいなもんだし、当然鏡家サーガも読まないまま大人になった。マジで2020年に生まれて初めてフリッカー式を読んだ。今まっさらな気持ちで読んでも、脳天をガツンとぶん殴られるようなパワーのある本だった。以降のシリーズ作も同様。いや、まあ、「ウワー!ゼロ年代だ!」って気持ちもかなり大きかったけど…。
リアルタイムで思春期にこれらの作品群に出会っていなくてよかったような悪かったような…。まあ結局本との出会いというのは巡り合わせであるし、初めて読んだそのときが自分のタイミングだったとしか言うしかない。私はアラサーになってから鏡家サーガに出会う運命だったのだ。
そしてその結果、こうやってnoteにだらだら文章を書き始めている。
この初期四作を読んで、どーしても胸に引っかかっている部分があるので…整理しようと思って…。しかも別に鏡家サーガ自体にはあんまり関係ない話だ。別に感想とか評論とかそういうアレじゃない。なのに鏡家サーガのやんわりしたネタバレは含むので、鏡家サーガのネタバレを読みたくない人はこの辺でUターンしてもらいたい。なにそれ…。
(Uターンするための余白)
はい、じゃあここからやんわり鏡家サーガ初期四作のネタバレの話をします。
鏡家サーガ初期四作、いろんな視点で語ることができる作品だと思うけれど、私が一番胸に引っかかっているのは、この四作にそれぞれ含まれている「おまえは〝主役〟じゃない」という部分です。
別にこの文章がそのまま出てきているわけじゃないんだけれども。この要素というか、概念は物語の結構根っこのところに置かれているんじゃないかな?と感じた。
特に、フリッカー式では物語のクライマックスでそれがはっきり突きつけられて、読者がひやっとする構造になってるんじゃないかと思う。そもそも公彦の立ち位置がガラッと反転させられた直後にそれが起こるので、尚のこと。
エナメルを塗った魂の比重でも水没ピアノでもクリスマス・テロルでも、状況や意味合いは違えど、視点人物の彼/彼女たちはそれぞれ彼/彼女らの物語の最中でそれを突きつけられる。「おまえはこの物語の/おまえが望む物語の〝主役〟ではない」という事実を冷や水のようにぶちまけられる。
どうしてこんな風に彼/彼女たちは徹底的に突き放されるんだろう。自分が信じていた物語から引きずり下ろされるんだろう。もしかしたらどっかの評論とかで論じられたりしてるのかもしれないけれど、あいにく私はそれを知らない。わからないから引っかかる。
「おまえは〝主役〟じゃない」っていう概念が嫌いっていうわけじゃないんだよね。というかむしろかなり好きなほうで、自分でもそういう夢小説をたくさん書いてきている。(夢小説とはなんぞやって話はもうわざわざしねえぞ今回)
自分がなんでそういう概念を好んで書き続けてるのかなって掘り下げると、いくつか理由は思い至る。
①そもそも〝夢主〟という存在自体をそういうものだと思っている
〝夢主〟という存在は夢創作においてメタ的に特権階級であるという前提でやってるんだけど、同時に「誰でもあって、誰でもない」っていう要素にもかなりエモを感じていて、それって要するに「何者でもない」って話でもあるよねっていう話を好きでやってる時期が長かった。
物語に別レイヤーから介入できる特権階級でありながら、あらゆる読み手から感情移入(自己投影)されることが求められることで自我は薄められ、そして結局最終的には物語の異物でしかありえない、何者でもない〝夢主〟たち……みたいなのがめちゃくちゃエモくて好きなんですよね。今でも好き。
で、それをスパッとわかりやすく前面に押し出すと、「おまえは〝主役〟ではない」って話になるんですよね。だからそういうのばかり書いてた。絶対それはある。
②いわゆる〝救済〟ものに割と批判的な感情が強い
これ言うと身も蓋もないんだけど、夢創作における〝夢主〟ってある種、書き手の願望実現装置みたいな側面がある。原作でいろんな目に遭ったキャラを「救いたい」という気持ちが書き手にあって、夢創作でそれを実現しようとすると、夢主が物語に介入して改変していく形になるのは何らおかしいことではない。
それはそれとして、私は昔から天邪鬼なので「〝救済〟って何やねん」みたいな気持ちがだいぶ強い。「死ななければ救われると思ってるんじゃねーぞ!」とか「おまえが勝手に思ってる〝しあわせ〟の枠組みにキャラを押し込めてんじゃねえ!」みたいな気持ちが結構出ちゃうんですよね。(身も蓋もねえ~!)
そういう気持ちを自分の作品として昇華すると、「おまえ(夢主)はキャラくんを救おうとしてがんばったのかもしれないけど、それは別にキャラくんが望んだことではなかったっぽいね!残念!」みたいな仕上がりになりがちで、まあ要するに「おまえは(おまえの思う物語の)〝主役〟ではない」って話になるんですよね。いや、さすがにそこまでダイレクトに露悪的なのは一本しか書いてないはずだけど…。
もちろん、単にそうやって自らの行動がエゴでしかなかったことを突きつけられて崩れ落ちる〝夢主〟が萌える。という気持ちがあるのも前提です。そんな露悪的な思考だけで二次創作しないよ…。
水没ピアノはその点「やったぜ!」の気持ちになりました。やったね。(ややネタバレ部分)
まあ大体この2点が根幹にあってやってるんだと思うけど、もうひとつちょっと心当たりがあって、夢創作やってると言われることがあるんですよね。
「おまえなんかが物語の〝主役〟になれると思ってんの?」みたいな揶揄。実際は「おまえがキャラくんの彼女になれるわけねーからw」的な言い回しをされるんだけど、意味は同じである。「おまえが主人公の話なんて読む奴いない」的な言い方する人もいるんじゃないかな。
あとやっぱ「夢創作は書き手が自分に都合のいいラブストーリーをやっていて稚拙なので読むに値しない」みたいな…そういう空気や揶揄…今でもめっちゃあるよね…。
何にしてもこれは「夢創作の主人公=〝夢主〟は総じて書き手自身(もしくはそれに準ずるもの)である」「夢創作には都合のいいラブストーリーしかない」っていう誤解が前提のアホの揶揄なので(ダイレクト悪口)、別に真っ向から相手する必要ないやつなんですけど、あんまりにもそういうこと言う人が見受けられるので、普通にメチャクチャムカついてた時期があったわけですよ。いや今もムカつくけど!何年か前は更にもっとムカついていた!
だからある種の逆張りとして、〝夢主〟がキャラに突き放されたり、望みが叶わなかったり、上手くいかずに立ち尽くして崩れ落ちるような話ばかり書こうとしていた部分は…きっとある…。「おまえ(夢主)はおまえの思う物語の〝主役〟ではない」という話をひとつでも増やすことで、アホな揶揄に対して「そういう話ばっかりじゃねえから」とカウンターしようとしていたんじゃないか。実際それで元々全然夢読まない人に「こういうのも夢としてアリなんだね」って好印象を持ってもらったりしていたわけだし…。
もちろん、自分はそういう話が好きで、好きだから書きたいっていうのは大前提だと思う。でもそればっかり書いてた時期があるのは…やっぱりこう…ムカついてたし傷ついてたんだろうなって…。
でも、今思うと、そういうカウンターって果たして意味があったのか?って結構疑問でもある。
そういうのばかり書いてた時期の自分の夢小説はギラギラしていて、研ぎ澄まされて殺意に溢れたナイフみたいな読み味で、よく書けてると思うし自分は大好きだけど、無理解な部外者への目配せとしてそういうものを書く意義ってあんまりないんじゃないかな。
というか、〝わたし〟が主役の〝わたし〟に都合がいい物語を書く事って、別に全然悪いことじゃなくない!?
いいだろうが別に!自分のために自分の物語書いたって!!なんでそれで馬鹿にされなきゃいけねえんだよ全然意味分かんねえ!超むかつく!!
確かに安直な救済ものはムカつくときもあるが、それを書くなって言う権利は私にはないもんな!みんな自分の思う幸福や救済を書けばいいと思う!私は書かないってだけで!別にいいよ!好きにやればいいよ!何にも悪いことしてないよ!!
なんでそんな当たり前の営みを馬鹿にしてくる人間のロジックに寄り添って逆張りして殴り返そうとしてたんだ!?いやもちろん好きでやってたんだけどやっぱ…意味なくない!?普通に「うるせー!別に〝わたし〟が主役でええやろがい!!」って殴り返すべきじゃなかった!?
こういうこと言ってると「私は自分なんかが主人公になれるなんて思えないし、それをやれる夢の人って自己肯定感が高くてすごいな~って思う」とかいう、なんか「自己肯定感」という概念に対しても激しく誤解を含んだ謎の煽りを受けたりするわけだけど、もうそれも知らねーよって感じですよ。つうか自己肯定感とか関係ねえよ。別にいいんだよ〝わたし〟が書く物語なんだから〝わたし〟が主役でも。
主張すべきことはそういうことだった…過去形じゃない、今でも絶対そうだ…。
だって私が書いた夢小説を読むのは夢の人がメインのはずだもん…。私と同じように「おまえは〝主役〟になんかなれない」と言われ続けてきている人ばかりのはずなのに…。その人たちにも「おまえは〝主役〟なんかじゃない」って突き放す小説ばかり読ませたって…傷つけ合うだけだもんな…。「別にええやろがい!」で殴って行った方がみんなしあわせになるはずだった…。
今後はもっとなんかそういう、「おまえはちゃんとこの物語の〝主役〟だよ」って夢小説を書いていこう。そうしよう。
そう思ったけど、一番最近に書き上げた夢小説はやっぱり「キャラくんの運命の女にはなれなかった女夢主」の話だったな…。夢主一人称じゃなかったけど、「おまえは〝主役〟じゃない」じゃんか。
結局シンプルにそう言う話が好きで書いてるんだよ。
だから鏡家サーガ初期四作すごいおもしろかったし、思春期に読んでたらヤバかったな…と思ったんだよ。そういうことです。
でもやっぱり「なんでこんなに視点人物たちを突き放してるんだ?」って気持ちが強く出たのは、私も多少スタンスや考え方が変わってきてるって証左だよね。「別に〝わたし〟が主役でええやろがい!」の気持ちが強くなってきている…。
マジで別に鏡家サーガそのものにあんまり関係ない話だった。途中で感情的になってきて文章のノリも変わっちゃったけど、直すのめんどくさいからこれでいいか…。
フリッカー式読んだときから一年以上ずっとだらだら考えてたことだったのでまとめられてよかったですね。
これからもやっていくぞ!夢小説!「別に〝わたし〟が主役でもええやろがい!!」の気持ちで!(ただし好みの関係で夢主が崩れ落ちるときは崩れ落ちる)