夢創作とわたし
「夢創作とわたし」という文章を、ツイッターではなくまとまった文章で書くべきだよな~と思ってもう何年経ってるのかよくわからないのだけれど、とにかくもう何年も経っている。
もちろんその何年もの間にどう書くべきかな~ってことはいろいろ考えてるんだけどなかなかまとまらない。書きあぐねたままでいる。
それはぐるぐるさんがそのここ数年の間に書いてる二次創作のメインが夢小説ではなくBLCPであるとかそういう事実とは関係なく、本当に単純にどう書いたらいいのかよくわからないのだ。
たとえば「Aというキャラに出会って恋をして、その彼と“わたし”の恋を表現していくために夢創作をやっている」みたいな話だと、こう、エモーショナルにまとめられるんじゃないかっていう気がするんだけど、あいにく私は昔も今も「キャラくんと“わたし”」という夢小説を書いたことがないし、そういう作劇を試みたこともない。
ぐるぐるさんがキャラガチ恋勢でないというわけではない。私の記憶にある限りの初恋(二次元も三次元も問わない、本当の初めての恋)は確実に早乙女乱馬で、当時幼稚園児だった私が「乱馬が好き」と言うのを聞いた母に「現実の人は水をかぶっても女の子になったりしないでしょ」と諭されたのを覚えている。(問題はそこなのか?)
それからもたぶん、三次元の人間相手より二次元のキャラクターに多く恋をしてきた。
ちなみに乱馬の次に恋をしたのはサイボーグクロちゃんのミーくんです。いきなり人外なの?今もサイボーグクロちゃんのアニメOPのミーくんを見ると胸がドキドキする。あとは最遊記の悟浄とか戦国BASARAの佐助とか…男の趣味がわかりやすいよなつくづく…至近だとザップ・レンフロとか法月倫太郎(探偵)とかなのでマジで男の趣味がわかりやすすぎて恥ずかしいレベルなんですけど、とにかく本当に二次元キャラに恋をするタイプなんですよ。ただ「キャラくんと“わたし”」は書かないというだけで。
そもそも夢創作と一口に言ってもかなりジャンルの幅が広いので書かれるものは恋愛に限らずいろいろだという話はもう大前提だから割愛させてもらうとして、私は15年以上夢小説を書いてるし、それもどちらかというとキャラと女夢主の恋愛小説を書いてる部類だし、「自己投影してくれてもくれなくてもいい」のスタンスではあるんだけど、少なくとも書いてる私にとって、夢主は“わたし”ではない。あれらは「キャラくんと“わたし”」の物語ではなく、「キャラくんと“彼女(夢主)”」の物語だ。
読み手としても同じことがいえる。私は物語についてめちゃくちゃ感情移入をするタイプだけど、それは特定の登場人物を“わたし”だと思うということとは別だ。なので私は基本的に他の人の夢小説を読むときに名前変換はしないし、夢主を“わたし”だとは思わず、「キャラと“彼/彼女”」の物語として読む。
別に対象が夢創作でなくても、“わたし”もしくは“だれか”をロールプレイするというのが苦手なんだよな。だからプレイヤーの目的やプレイ方針を自分の中で設定できるような自由度が高いゲームが苦手だし、多分TRPGとかも向いてないと思う。
キャラに恋はするけどその感情は「彼と“わたし”」の物語を生まないし、ついでに言うと別に恋をしてる相手だからと言ってたくさん夢小説を書くわけでもないし、夢創作と私の恋心は大抵切り離されている。
世界において夢創作は未だに信じられないほどバカにされるジャンルで、われわれ(巨大主語)はそれに対して「バカにされる筋合いはねえ」と殴り返していくという戦いを続けてここまで来ている。
大体、夢創作への揶揄はいわゆる自己投影というか、キャラに恋をすること、その(疑似)恋愛を創作に書き起こすことそのものへの揶揄が多い。以前はそれについつい「夢創作はキャラ×自分(書き手)の恋愛ものばかりではない」というカウンターをしていたけれど、それは実際キャラ×自分をやっている人を切り離すようなものだよなという自省も発生し、最近は「いやそもそもキャラに恋してもいいしそれを創作に書き起こしてもいいだろ」という言い方を選択するようにしてる。少なくとも私は。
そもそもここ数年は刀剣乱舞の審神者に始まって、ほかにもいろいろとプレイヤーキャラが“あなた(わたし)”たり得るゲームがいわゆる女性向けの畑でも増えているし、その影響があってかなくてか「キャラדわたし”」概念が割と勢力を広げている背景もあるし、今、夢創作について語るとしたら「キャラくんと“わたし”」の話にしたほうがキャッチーだし、エモいし、意義もあるのかなという印象がある。
夢大好きなキャラと“わたし”とのコミュニケーションのためには夢創作が必要なのだ、という話。
先述の通り、私はその話をできない。いや別に他人がその話をしてるのがどうかわからんけど…。つーかそれって「夢創作」というより「夢感情」の話になるのかな。
私はツイッターを始めた2010年からずーーーーっと夢創作の話をしていて、主に夢創作の地位をやたら低く設定したり揶揄したりオモチャにする人間に対してキレ続けていて、ぐるぐるさんのツイッターは夢創作絡みの戦いの記録と言っても過言ではないレベルで、なんでそんなずっと憤り続けてんだよと自分でも引かないと言ったら嘘になる。
ずっとキレてるんだから私は夢概念のことをすごく大切にしてるはずなんだけど、それは夢創作が「“わたし”の恋心」と寄り添ってるものだから、が理由ではないと思う。私が夢創作の話をするにあたって、“われわれ”からキャラへの恋心の話をしているとき、それは大体が“わたし”の恋心の話ではなく、“だれか”の恋心の話だ。繰り返し繰り返しになるけれど、“わたし”の恋心は、昔からずっと、夢創作と切り離されているので。
要するにポジショントークなんだよな。夢創作について語るとき、何か怒っているとき、(少なくともある時点の以降は)ずっとポジショントークをやっている。
そもそもの怒り自体も、誰かの恋心を、誰かのかいてきたものを、誰かの愛してきたものを雑な認識で馬鹿にしてんじゃねえという、“デカい”怒りなんじゃないのか。その怒りの中心に本当に“わたし”はいるのか。
実際のところの、「夢創作と“わたし”」はどういうかたちをしているんだろう。
それを上手く文章としてまとめられない。だからずっと書きあぐねている。
結局、“わたし”と夢創作の間にエモーショナルな関係なんてないんじゃないのかな。エモーショナルな関係がなきゃいけないなんて話はないが。
これも大分前から言ってることになるけど、要するに「夢創作」って創作ジャンルでもあるし、単なる(二次)創作の一手法でもあるわけじゃん。(これは「かかれる物語の方向性」と「創作としての構造」の両方の視点があるみたいな話)
私にとって、夢小説は手段でしかないんじゃないか。
ここ数年はBLCPもそこそこ書くようになってきたので余計にこの傾向が強まってるんだけど、私は夢小説を書くとき「“夢主”という曖昧かつメタ的な存在を中心にしてキャラおよび世界観を表現する縛りプレイ」としてやりがちだし、BL小説を書くときは「既存のキャラ同士の関係を中心として既存のキャラの価値観のもと、キャラおよび世界観を描写する縛りプレイ」としてやりがちなんだよね。そもそもの二次創作自体が縛りプレイみたいなもんだけど。
10年くらいほぼ夢小説しか書いてなくて急にCPをやり出したら「このキャラはこういう思考にはならねえ」とか「このキャラはこのキャラに対してこういう態度はとらねえ」とかの壁にぶつかりまくって序盤は割と難儀した。まあこれは大体二次創作のオタクには共有されてる感覚なんじゃないか。自分で書いてるのに解釈違いという壁。
でも夢小説だと“夢主”という、イチから私が作った、誰でもあって誰でもない、だからこそ誰にでもなれる便利概念が中心にあるので、そういう“キャラの解釈”的な縛りはほとんどないわけだ。二次創作人生でずっとそればっかり書いてたんだからまあCP小説は相対的に縛りが多く感じるよな。
かといって夢小説が縛りプレイじゃないかというとそういうことはなく、少なくとも私は縛りプレイと思ってやっている。
私は「読者のあなたはこの夢小説を自己投影して読んでもいいし読まなくてもいい」というスタンスでやっているので、“夢主”を必ずしも“オリジナルキャラクター”だとは思っていない。無個性夢主とまでは突き詰めていないけれど、なんとなくボンヤリとした存在だと思って書いている。“誰でもあって誰でもない”というイメージ。そういう存在を中心にやっていくという縛りプレイ。
何より、このやり方だと夢主の“名前”に意味を持たせられない。名前変換機能で変換されることが前提なのだ。そもそも私は夢主にいちいち名前を付けない。いくつかイレギュラーもあるけれど、基本的には汎用の名前を使い回している。だから名前そのものに意味を持たせたり、物語の中でギミックとして使うことができない。これはやってみると結構な縛りになる。
そもそもこの方針だと、名前変換機能がない、たとえば紙媒体とかで夢小説を公開するのがかなり難しくなるというか、それこそ縛りプレイになる。私の場合は「夢主の名前を出さない(ネームレス)」という割とスタンダードな方向か「夢主を終始(名前に依存しない)あだ名で呼び、フルネームは出さない」という力業で処理して夢本を出している。縛りプレイである。後者は「本名に依存しないあだ名だったら名前変換しなくてもいいだろう」という相当な拡大解釈なのでええんかいなと思わないでもないのだが、褒められる割に怒られてないから別にいいんだと思う。具体的にどういうあだ名で処理したかは割愛。
他にも“夢主”という概念を中心にした縛り要素をいくつか自分で自分に課してるんだけど、いちいち言ってるとちょっとキリがない。
なんにせよ、そういう縛りプレイとしてやっているから、CPを書くか夢を書くかはどういう縛りでやるかを選ぶことという側面がなきにしもあらず。もちろん、CPじゃなきゃ書けないもの、夢じゃなきゃ書けないものもあるし、どっちを書くかはそのときどきでより適したほうを選ぶ。
結局、私は二次創作をやるにあたってCPのあるなしだけじゃなく、夢というもうひとつの選択肢を持っているというだけ、そして夢の方がやってる期間が長いので書き慣れてるし愛着もある、というだけなのかもしれない。
そうまとめちゃうと全然エモくもなんともないな。
でも、夢創作とか夢主という概念にかなりエモを感じてるというのも確かなんだよな~!
“誰でもあって誰でもない”、そういう概念としての“夢主”が萌え。キャラくんに恋する“わたし”のコミュニケーション手段としての“夢創作”概念萌え。ついでにメタフィクション萌え。(話すと長くなるので詳細は割愛)
手段として長く使っている、かつ、概念に萌えている。だからめちゃくちゃ大事にしているし、バカにされるのは我慢ならないということなのでは?
複雑な感情も個人的な物語も何にもなく、単にそういうシンプルな愛着があるというだけの話。
「夢創作とわたし」を突き詰めて、そんな味気ないところに落ち着いちゃっていいんだろうか。これはフォロワーのみんなたちが私に求めていたものなのか?もっとエモい何かが良かったんじゃないのか?でもここにしか着地しないからしょうがないよな。
何を求められているか、を気にして書きあぐねたままでいるほうが馬鹿馬鹿しいし。
とりあえずはこういうところで、ぐるぐるさんの「夢創作とわたし」の話は一区切りにさせてもらおうと思います。
なんか何日か前から書いてたんだけど今公開したらセンシティブな感じにならない?大丈夫?まあひとまずはこれで。