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神さまのいない教室


 柚穂が神さまだと気付いたのは、現代文の授業中だった。

 現代文の先生は声が小さく、聞き取りにくい。文字だけが妙に綺麗だけれども、チョークを黒板につける瞬間、何故かいつも手が震える。その日も彼は、手をぶるぶるとさせながら、独り言のように言葉を落とした。

「皆さんの心の中に、神さまはいますか」

 中途半端に時間が余った授業の終盤、先生はほんの雑談くらいの気持ちで、その話をしたのだろう。しかし、教室の緊張感は切れ、「大きな声で笑ってもいい集団」の話し声が、さざなみを作っていた。ほとんどの生徒が、先生の話を聞いていなかった。それでも彼は、気にせずに続けた。黒板に体を向け、コツコツと、チョークでその緑色を叩きながら。

「耐え難いほどつらいことが起きたとき、強く信じているものがあれば、心は楽になる」

 はっきりと言い切る形の言葉を使っているのに、相変わらず声はこもっていて、教室の関心はそちらには向かなかった。それなのに、私は、彼の震える腕と、取りこぼしそうな声に惹きつけられた。続きが聞きたくてたまらなかった。

 次の言葉は、チャイムに被って、更に聞こえが悪かった。同時に、生徒が席を立つ音も、先生の声にぶつかった。騒音の中で、彼は確かにこう言った。

「極限の苦痛の中に放られたとき、あなた自身が、神さまとなるのです」

 言葉の直後に、私は、右斜め前に座る柚穂を見た。授業が終わったというのに、席を立つこともなく、ひっそりと、彼女はその場に留まっていた。

誰も、柚穂を見ない。柚穂に声をかけない。

柚穂はしかし、正しい姿勢を崩さぬままで、淡々と、机の上の教科書を片付け、次の授業の準備を始めた。横顔は凛としていて、形のいい鼻をやや上に向ける角度を作った表情は、高慢な印象さえ与えた。彼女を取り巻くのは、圧倒的な静寂だけだというのに。

教室で、一人、彼女自身の均整を保ったまま、佇む女の子。その姿を見て、私は確信したのだ。

 柚穂は、今、神さまになっているのだと。


 教室の平穏が揺らぎだしたのは、ゴールデンウィークが明けた頃だった。もったりとした日差しが春を主張し始め、怠慢な空気が充満していた、五月の半ば。クラスは二年生のときからの持ち上がりだ。新学期の時点で、いくつか作られた集団の顔ぶれに変化はなかった。

少なくとも、この、五月の半ばまでは、変化はなかったのだ。

 柚穂が教室に入ると、シン、と静まり返るようになった。シン、の後に、一瞬、時間が止まったかのように、クラスが固まり、全ての目線が柚穂に集まる。それらは、すぐに終わる。柚穂がチラリと顔を上げると、全員、何事もなかったかのように、直前までの動きを再開させる。

柚穂は「それ」が始まった頃から今に至るまで、変わらない動作を続けていた。怯むこともなく、屈することもない、確たる態度で。


 教室の中には、「大きな声で笑ってもいい集団」と「小さな声で笑った方がいい集団」がある。明確な線引きは何もないが、それがわからない生徒はほとんどいない。自分がどちらに属しているのかがわかったら、そこに順応し、立場をわきまえた行動をとる。上手にできれば、誰からも迫害されない。高校生活も三年目に突入した今、私は「小さな声で笑う」ことによって、日々を穏やかに過ごしていた。

 クラスの与党は常に「大きな声で笑ってもいい集団」だ。彼女たちの力強い声で、教室内のルールは出来上がる。学校行事の出し物や、課外学習の班決め、委員会の割り当てまでもが、彼女たちの発言によって決まる。余計な口を出さずに、言いつけを守っていれば「小さな声で笑った方がいい集団」の安寧は存続する。私たちは、小さな声で笑い、小さな動きで頷く。心の中で両手を上げて、決して逆らいません、と膝をつく。

 柚穂はこの一年間、ずっと「大きな声で笑ってもいい集団」の中にいた。


「大きな声で笑ってもいい集団」の中で、迫害は度々起こる。彼女たちには、定期的に、誰か一人が見えなくなる。今までそこに居た筈の人間を、徹底的に見えなくして、見えているもの同士で、昨日までと変わらない生活を送る。どういうメカニズムでそれが起こるのかは、私にはわからない。

「見えなくなった」側の女の子の行動は決まっている。彼女たちは、ひそやかに「小さな声で笑った方がいい集団」の群れに移りこむ。もともとはそこが自分の住処だ、と言わんばかりの顔で。「小さな声で笑った方がいい集団」には、拒否権などないから、そのまま彼女たちを受け入れる。

 そうしてクラスの秩序は保たれ、数日が立つと、「見えなくなった」人は、自分が見えていなかった日々をすっかり忘れてしまったように、「大きな声で笑ってもいい集団」へと帰っていく。いつの間にか、彼女たちは「見える」ようになっている。

 これはあの集落での、定期的な儀式なのだ。よそ者の私たちが口をはさめることではない。私たちはただ、透明人間を従順に引き受け、

送り出す作業を繰り返していくだけ。今までも、これからも、ずっと、それが続いていくのだと思っていた。

けれども、今回は、そうではなかった。

柚穂はこちらの群れに移動しようとしないのだ。

 初めのうちは、ただ意固地になっているだけだと思っていた。今までにも、こういうタイプの「見えない」女の子は居たからだ。けれども、段階を踏まなければ「見える」ようにならないことをきちんと理解していた彼女たちは、ただ、慎ましく、自分の運命を受け入れた。毛色の違う共同体の中に紛れ込み、小さな声で笑い続けた。

 それなのに、柚穂は、三日がたっても、一週間がたっても、いつまでも、「小さな声で笑った方がいい集団」に声をかけてこなかった。無論、「大きな声で笑ってもいい集団」には、柚穂は見えないままだ。三日がたっても、一週間がたっても。

 まろやかな日差しが青葉を照らす季節に始まった「儀式」は、おしまいの気配を見せることなく、空の色はグレーになることが多くなってきた。


 六月の雨は牢獄のようだ。いつまでも晴れない空の下に捕らえられたまま、しかし、私たちの日々は何も変わらずに続いていた。柚穂は相変わらず「見えない」ままだし、彼女が誰かに話しかけることもない。この頃は、これが当たり前の光景として、すんなりと馴染んでいた。まるで最初から、柚穂のことなんて、誰にも見えていなかったかのように、しっくりとくる教室の配置。何も感じていないような、柚穂の表情。やはり彼女は特別なのだ、と私はひそかに思う。

「あの人、こっちに来ないね」

 昼休み、昼食を取りながら、「小さな声で笑った方がいい集団」の仲間が、ぽつりと言った。柚穂の方に目線をやりながら。「大きな声で笑ってもいい集団」と「小さな声で笑った方がいい集団」には外交はほとんどない。名前を呼ぶことなんてないし、必要もないのだ。だからこの場で、私の仲間が柚穂のことを「あの人」と呼んだのは、適切だった。

集落のメンバーは、苦笑いをし、この話題から逃げたい、というポーズを取った。私は特に反応せずに、一人で菓子パンを食べる柚穂を見た。意志の強そうな瞳は少しも揺れない。ただ、彼女は、淡々と食事をしている。誰にも彼女が「見えていない」この場所で。

 美しいと思った。神さまだと、思った。

「早く、話しかけてくればいいのに」

 誰からも反応をもらえなかった私の仲間は、吐き捨てるように呟いた。彼女が言いたいことはわかる。段階をきちんと踏めば、柚穂はまた「見える」ようになるのだから、そうすればいい、と言っているのだ。

「私たちの仲間になるのが、そんなに嫌なのかしら」

 小さな声でしか笑えない、自身の立場を哀れむような声は、しかし、仲間たちの誰にも拾われることはなかった。


 柚穂が「見えなく」なってから、クラスの空気が柔らかくなった。「大きな声で笑ってもいい集団」は、いつも、次に「見えなく」なるのは自分なのではないか、という恐れから、ピリピリと張り詰めていたが、柚穂が「見えない」うちは、次の透明人間は生まれない。中心人物たちが穏やかに過ごす教室は、自然と丸くなり、清潔な調和が生まれていた。「小さな声で笑った方がいい集団」にとっても、それはありがたいことだった。以前よりもずっと落ち着いた雰囲気の教室。集落外の人間の顔色を窺うことも随分減った。全て、柚穂のおかげだ。柚穂が一人、「見えない」ことを続けてくれるから、クラスは静かに、優しく、まとまる。

 強く、美しい柚穂。私は、私だけは、彼女の信者でいようと決めた。無慈悲なほどの孤独の中で、屈することなく苦痛に耐える「神さま」の柚穂。神さまが苦しみを引き受けてくれる限り、クラスメイトは平和に暮らすことができる。

 どんなにつらい状況に置かれても、神が即物的にその人を救うことはないと、私は思っている。けれども、つらい人自身に神さまが宿ることは、あるのかもしれない。現代文の先生が言っていたように。柚穂が体現しているように。その場にいる全ての人が遭う可能性のあった酷い仕打ちを、代表して受け入れている、柚穂。

 ああ、そうか、と思った。「大きな声で笑ってもいい集団」の儀式の意味が、ようやくわかった。

 彼女たちは、定期的に「神さま」を選んでいたのだ。教室の悲しみを一身に受け入れる「神さま」を。残酷なルールに則って。

 神さまは柚穂を通して何を見ているのだろう。正しい姿勢を保ち、頑なに自身の領域を守り続ける、気高い少女を通して。彼女の中にいる神さまは、この教室で、何を見ているのだろう。


 蒸れたようなにおいが充満している。梅雨時の教室はいつもそうだ。雨で湿度が高くなった教室で、私たちは、下敷きをうちわの代わりにしながら、現代文の授業を聞いていた。今日から新しい単元に入る。有名な文学作品を、それぞれで解釈していく授業だという。これからの予定を黒板に書く先生の手は、やはり、震えていた。

「それでは、これから、好きなもの同士で固まってください」

 黒板に字を書きながら、ぼそぼそと言った先生の声に、教室の空気が、瞬間、張り詰めたような気がした。ほんの一瞬、のことだ。

「きちんとグループを作ることが出来たら、それぞれに、作品を割り当てますからね」

 はーい、と明るい声を出した「大きな声で笑ってもいい集団」の一人が、次々と仲間を呼びよせた。私たちも彼女にならい、「小さな声で笑った方がいい集団」で身を寄せ合うことにした。グループは、教室のあちこちで、そつなく、順序良く、出来上がる。

 柚穂は。

 いつもの席に座ったまま、じっと、下を向いていた。彼女らしくなく、姿勢が悪い。前に柚穂の話題を出した仲間が、そっと、私に耳打ちをしてきた。

「誘った方が、いいのかな」

 おそらく、それが正しいのだろう。頑なに自身で決めたルールを守ってきた柚穂だが、今、この場で、この授業の中で、「見えない」ままでいることはできないだろう。誰かとグループを作らなければいけないのなら、その役割はいつも通り「小さな声で笑った方がいい集団」の私たちに課せられる。

 意を決し、柚穂の席へと向かった。背中を丸めたままでうつむく柚穂の肩を軽く叩く。一緒に組もう、こっちにおいでよ。そう言おうとした私の声は、振り向いた柚穂の表情によって、喉の奥へと押し込められてしまった。

 柚穂の目は、真っ赤だった。いつもは凛とした形を崩さない、平行な眉が、ググッと下がっている。何かを訴えたくても、言葉にならないのか、唇はうっすらと開いたままだ。

 何も言えなくなってしまった。だって、こんな顔をするなんて、柚穂らしくない。あの堂々とした、強く、気高い、「神さま」の柚穂らしくない。そんな顔をするなんて、ただの女の子みたいじゃないか。

 そう思ったところで、私は背中に冷水をかけられたような衝撃を受けた。足元が崩れ、そのまま倒れこんでしまいそうな衝撃。魔法が解けたかのように、目の前の女の子を見つめた。

 ただの女の子みたい、じゃない。

柚穂は、ただの女の子なのだ。

「大きな声で笑ってもいい集団」は、こうなってもなお、柚穂を見ない。見えていない。完膚なきまでの沈黙で、柚穂に悪意をぶつける。悪意。そう、この「儀式」は、ただの悪意だ。純粋な、混じりけのない、悪意。それ以上でもそれ以下でもない。悪意で作られた静寂を肌に感じて、やっと気付いた。

 この教室には、神さまなんていない。信者だって、いない。

 ここにいるのは、被害者と、加害者だ。

 柚穂が被害者で、私たちクラスメイトは、加害者。

 被害者と、加害者。言葉の重たさに、ゾッとした。柚穂は静かに立ち上がり、先生、と小さな声で呼びながら、手を上げた。

「体調が悪いので、保健室に行ってもいいですか」

 現代文の先生は、震える手を下ろし、スッと振り向いた。彼は柚穂を、クラスを、じっと見つめてから、全てを理解したような顔で頷いた。柚穂は私の顔を見ようともせずに、そのまま教室を出て行ってしまった。

 追いかけなければ、と思った。今すぐ教室を出て、呼び止めなければ、と。そう思ったけれど、出来なかった。

だって私は、柚穂の名前を呼んだことがない。


柚穂がドアを閉める音が、教室の中に落ちた。ささやかな、ぱたん、という音は、世界の終わりのような感触をしていた。窓の外から聞こえる雨の音が、それを受け取り、ぱたぱたと粒を落とす。柚穂の悲しみを引き受けるかのように、ぱたぱたと。パタパタと。

雨の音は続く。この雨は止むのだろうか。

私を、柚穂を、「大きな声で笑ってもいい集団」を、「小さな声で笑った方がいい集団」を、悪意で溢れかえりそうな教室に閉じ込める、この雨は。

永遠に止まないのかもしれない、と思った。

 

柚穂が神さまじゃないと気付いたのは、現代文の授業中だった。



                  




        

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