他人の結婚を喜べるとき、喜べないとき
友人が結婚した。
その報告を聞いたとき、意外と嬉しかった。
今まで、友人の昇進や結婚など、おめでたい報告を聞くたびに、おめでとう、といいながら、心は動揺し、あせり、自分の立っている場所を確かめるのに必死になっていた。
私はちいさな人間だな、と自覚する。
ことさら、自分に恋人がいないときなどに、他人の結婚など喜べるだろうか。結婚の意味もよくわかっていないし、その大変さやそこに関わる苦労や覚悟も経験していないのだから、尚更、結婚しました!といわれてもピンとこなかった。むしろ、なんでそんなに早く結婚するの、その人で本当に大丈夫なの、なんて余計なお世話なことを思ったりもした。
だが、先日、友人の結婚の報告を受けた時、普通に嬉しかった。とても嬉しかったのではないのだが、普通に、よかった、嬉しい、とおもった。
よかった、というのも上から目線な気もするが、心配していたので、よかったな、と思ったし、二人がうまくいって、人生のパートナーが友人にみつかったことが、嬉しい、と思った。
そこで思ったのは、今までおめでとうと思えなかったのは、それほど近い間柄の友人の結婚でなかったからだと、気づいた。
その友人はお互いの恋愛遍歴も知っていて、そこでの失敗や苦しみなんかも知っていて、それでも二人で失恋を笑い飛ばしながら、次の恋へ挑んできた戦友のような友人だ。
だからこそ、本当におめでとう、と思ったし、二人のこれからを祝福している。これは、私がもし独身でも、変わらない気持ちだと思う。
つまり、私は他人の幸福を喜べないほど、器の小さい人間というわけではなかった。「他人」の幸福は喜べないが、「他人だけど、自分に近い関係の他人」の幸福は喜べる人間だった。
つまり、いままで他人とそこまで近しい関係を築けていなかった、ということだ。
それはそれで、さみしいことだが、そこに気づいたことで、ひとつ肩の荷が下りたような気がする。だって、本音では、本当に祝福できる結婚式しか出席したくないもの。