わたしはなにがしたいの?って 心の中で何度も何度も問いかけ続けている。 何百回、何千回、何万回でも ひたすらに問いかけて、思いついたら挑戦して 失敗しても続かなくてもまた繰り返し問いかけてみる。 振り出しに戻ったと感じても 以前と全く同じスタート地点はなくて。 ぐるぐると思考が巡ってまた同じこと考えても それもまた、違う視点だったりして。 わたしは不器用だから、きっと これだ!ってものしか情熱を注げない。 わかってるから、愚直に、ひたすら 何度も何度も何度も何度も
わたしは誰かに尽くすのが好きだ。 正しくは「愛を配るのが好き」なのかもしれない。 だけどそれはただ単純にその行為が好きというよりかは、自分のためにやっている気がしている。 「情けは人の為ならず巡り巡って己が為」という言葉通りに、わたしは誰かに優しくした分だけ自分も優しくされたいのだ。 以前は偽善ではないかと思っていたが、最近は自分のためで何が悪いと開き成り始めた。 世界で一番大事にすべきなのは自分だと思うし、もしそれと同じくらいに大切なひとがいるのならば、幸せ2倍でお得
そもそも、わたしは生まれた時から”ふつう“ではなかった。 自閉症スペクトラムと診断されたのは2年ほど前。 診断される前から、環境、ルール、人間関係に馴染めずに、ストレスで体調を崩すのは珍しくなかった。 わたしはどこか、ふつうの人とは違う。 違和感はあっても、その違和感をどう表現すればいいのか、わからなかった。 少数派であろう自分が間違っていて、多数派であろう人が正解だろうと、それだけを信じていた。 周りに合わせられない自分が悪い。 完璧にできない自分が悪い。 とにかくそ
まともに愛されてこなかったのではなく、愛されようとしてこなかったというのが正しいのかもしれない。 酔っ払うと、感情の蓋がゆるんで暴走する。 自分を大切にしようという気持ちがどこかへ行ってしまう。 すべては人任せ、天任せ。 きっと、それでも大丈夫だよって言って欲しいだけ。 赤ん坊のように甘えてるだけ。 (何にもできなくても愛して欲しい。 存在するだけで愛して欲しい。) でもわたしの寂しさはわたしだけのもので、世界で、それがあるからこそ味わえた世界観もある。 これまでわた
なんとなく、いつもするゲームがする気にならない。 ねむい、とてもねむい。 でも何か、書きたい。 そんな気分。 「反応しない練習」を読んでみた。 さらっとした文章。好きなタイプ。 著者の変わった経歴になんとなく惹かれる。 きっと、自身で色々と悩んでなやんで、たどり着いた先なのだろうと、そんなことを感じた。 過去は過去。いまは、いま。 妄想は現実ではない。 ふとした瞬間に、過去や妄想に囚われている自分に気がつく。 ゲームも、きっと、その妄想から逃げる手段だったのだろう。 暇
退屈はこの世の中で1番厄介な敵かもしれない。 ありがたいことに週の半分ほどは休んでいるので、精神的に余裕がある。 金銭的には…まぁ笑 最近感じるのは、室内で過ごすことによってルーティン化されるものが多いことや、また地方ならではの空気感。 新しいこと、刺激は、エンターテイメント。 でも、特にすごい欲しいものがあるわけじゃなくて。 満たされてる、割と。 だからこそ感じる、退屈さ。 愛しいものだと思うんだけど、ね
こんなことを書くのは恥ずかしい気がするが、わたしはずっと運命のひとを探している。 または、真実の愛。 すべてをゆるされたい。 そしてそれができるのは、愛だけだと思う。 でも、誰かにゆるされても自分がゆるせないとな、とも思ったりする。 自分が本当に自分のことをゆるせたら、もしかしたら運命の人も真実の愛も見つかるかもしれない。 わたしは本当に、本当に純粋で、ひとに笑われても、それでも、諦めることはないだろう。 どんな道を歩んできたとしても、たどり着けばそれが正解になるだ
「アルケミスト 夢を旅した少年」を読んだ。 前兆。 虫の知らせ、予感や閃きとか 私は割と信じる方だ。 その時代の流行りまたは風向きは肌身で感じる。そしてそれが変わる前兆があると、言葉が頭の中に浮かんだりする。 (つぶやいてみたりするが、多分あまり理解されてないだろうな。) ただそういうものがあっても、一番欲しい確信というものはいまだに得られてないと感じる。 これだ、この道をいきたい、という、そういう確信をずっと求めている。 それを北極星のように道標として歩んでいきたい
土砂降りの雨の中スニーカーで出勤したらスニーカーも靴下もびしょ濡れになってしまって、素足で仕事してる。 解放感あって、いい。 ふと、TwitterもFacebookもInstagramもみない生活をしてみようと思い、iPhoneからアプリを消した。 ただ見ないで置けばいいじゃないかと思われるかもしれないが、無意識で開いてしまう気がして、消した。 実際、朝起きてから数時間で、何回か無意識に開こうとしていた。 習慣って恐ろしい。 (かなり弱い繋がりからの) 孤独、孤立。 元
私の心の中には聖域がある。 誰にも侵されたくない、私だけの聖域。 私は自分の性認識が曖昧なタイプだ。 なくてもいいと思っている、極端に言えば。 と、いうより、私に「女性性を持っている」という眼差しを向けられるのが、なんとなく、苦手。 表面的な部分で判断して、あたかも私全部が”女性”であるかのように捉えられるのは、はっきり言えば癪に障ることがある。 女性体であれば、中身も女性である。 というのは、大半のひとの認識なんだろうな。 それはこれまで人間が作り上げた認識で、本当に
例えば、メニューに松竹梅とランクがあったら松を頼んでくれたり、例えば、奥の席を譲ってくれたり。 細やかな気づかいがとてもとても嬉しかったりする。 デートのお金は相手にすべて出してもらっていたので、私はお金で好意を返すことができない。 もちろん、プレゼントもいいと思うのだけれども、それだと味気なく感じて、考えた結果マッサージをすることにした。 (まったくもってエロくない、普通のやつだ。ご期待に沿えなくて残念。) 側から見たら、歳の離れた男女がいちゃいちゃしてる様は異様に見え
わたしは「対話」するのが好きだ。 対話することによって、相手の本質や自分の本質に触れたいと思う。 深く対話して本質に触れられた瞬間、己が身体から解放されるような幸せを感じる。 とても甘美な瞬間だ。 対話するときは、相手の目を見つめたい。 目はそのひとの本質が一番出ると、信じている。 相手のことを見つめると、わたしの目には相手が映っている。 そして、見つめ返してもらったとき、その目にはわたしが映っている。 目が合っている。 そして、その目はまさしく、鏡だ。 お互いにお互いを
メモ程度、追加していく。 「月に吠える」を読んでいる。 最初の北原白秋の紹介文の「譬へばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。」という表現に、背筋がぞわぞわした。 そんな表現ありなんだというか、これが表現か!という感じもした。 (そして突然、自分の文が恥ずかしくなる。) そういう感覚の表現も、していきたいなと思ってる。 詩も書いてみたい。 ボイトレも通ってみたい。エアシルクもやってみたい。 写真も好き! わたしは、自己表現が好きだし 何にもならなくても、続けていきた
どうして優しくするかと聞かれた時、優しくされたいからと答えたけど それは昔の感覚で、いまは違うかもしれないと、ふと気がついた。 すれ違うひと、コンビニの店員さん、職場のひと。 ぶっきらぼうなひとより、柔らかい雰囲気のひとのほうが、わたしはいいと思うから自らそう振る舞っている。 …やっぱり自分のためかもしれない。 でも利己的っていう感じも、しないんだよな。 あ、でもできることしかしない。 中途半端に、手を出さない。 それはひとつの「優しさ」だと思ってる。 でもみんな、そ
わたしは家になりたい。 愛する人たちがほっと安らげるような、そのひと自身でいられるような、そんな存在でありたい。 わたしの愛、特に他者愛を定義するとしたら、こうなると思う。 期待をせず、見返りも求めず、慈しみを持って接すること。 わたしが出来る限りのことを、愛しいひとにすること。 そのひとが望むままに生きることをたすけること。 それはきっと、わたしがそう愛されたいと望んでいるんだろう。 条件付の愛は悲しい。 ありのままを愛したいし、愛されたい。 肯定をしたい、して欲し