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驢馬

 失われし光源の、その通底する人間性を追い求め、私は遂にそれが実は暗幕の強調に過ぎぬことを知った。黒地の布は煌々たる光の行く末を超えて静かに佇んでいたのだが、それは果たして明るみすら呑み込んでゆく姿態を意識の咫尺、それでいながらも僅かに手の届かぬ程度の遠さから見せつけようとしていた。
 私は舞台の上にいる。その無間の間隙を潜ませる悲喜劇の中で唯一無二の凡百を私は演じているのだ。それは周りの演者も然りで、その没個性を大半は甘んじて受け入れ、中にはその屈辱さすら最初から気づかずに全うするものもいる。だがそれが哀れである訳では無い。
 初め一人がやっと覆われる円明に私は良く照らされ、それ故に無知なる万能を感じえ、その歓喜は仮令論難せらるものであれど、人間はやはり愚かで一度山を登れば後は只管降りてゆくしかないのにその絶景に見蕩れてまるでその景の主役として自身を同定するものであるから、後先を考えず欲張るのだった。そうして得られた結果は下らぬ社稷に叛き、何者にもなれなかった驢馬なのである。高慢な驢馬はその広大な臼歯を噛み締めて見えぬところで全てを恨むが、一切を結局怠惰に基づいて雪辱せず、踏ん切りのつかぬ状態の最中を諦観して生きる。気づいているのにも関わらず生きるということがどれほど虚しくて哀れであるか! それでも私はその深刻さに気付いているが未だ動かないのだ。
 全ての人間は不幸にして幸いなるものである。かく言う私も幸福を享受している。何となれば、痛苦こそ至上の幸福であるからだ。一般に快楽は幸福に類するものではなく、その持続性のみに注目され、その先の名残惜しさに今度はより強い恍惚を希求し、躍起になるからである。
 その点で高潔は最も忌み嫌われる。高潔は単に卑劣の対義語に過ぎず、それ故に二義的である。余りにも逆説的な話であるが、神の贈り物は卑劣さのみである。そしてその品性下劣な性格を以てして我々人間は、常に高慢でありつつも卑屈さを忘れず、その恐るべき客観的止揚から理性と宗教の折衷を構築し、今に至るのだ。優美とは韜晦癖の掉尾に過ぎぬ。
 だが先程にも述べたように、人間はその卑劣さに嫌気を差して優美を至高とすると魯鈍な驢馬へと変貌する。屈辱とは失意を包括している。そして失意とは自己矛盾の極地に他ならない。目標の不達成を垣間見た途端今まで炫耀としていた先に薄墨の翳りが漂う。初め薄昏い被覆は次第に夜に落ちる。すると腥い臭いがし、そのとき自分の蹄に気付くのである。
 こうして私は人間たる優美を求め、舞台袖にて自身が冥邈の驢馬であることに気付いた。指は消え失せ、もう何物も持てぬ肢体になっていた。不可逆的な変容が後悔と屈辱を齎した。その二つの要素は私を少しずつ蝕み、軈て身を震わせた。それだけだった。優美とも卑劣とも異なる憖っかな概念が脳裏に浮沈していて、また私の身体には徒労に窶した痺れが湿った叢に眠る蜥蜴のように蟠結していた。そして私もまた身動ぎもせず、嘆息すらもせず、泪を浮かべることも無いまま世界の移ろい、無慈悲な無常を過ごした。
 私は長いこと独りであったように思える。確かに幾らかの知己との交流はあるが、人間とは表層的な社会を作ることしか出来ないから、その結びつきがこの屈辱を晴らしてくれるという訳ではない。考えてみると何も言わず密かに自死するものが居るのだ。私達は人前では屈託なく相好を崩し、見聞した話題に対しては躊躇うことなく自説を論ずる一方、肚の内に関しては全くの緘黙を貫くのである。それ故に最も憐憫に値する場面は、あらゆる出来事の鯨波に身を困じ、しかし逃避する手段がいよいよ自殺以外に見つからないとき、心情は明らかに自殺に傾き、いざ死のうとしたときにやはり優柔不断になって誰か親しい間柄のものに連絡をとって自分の行為を止めるように促そうとしても結局直截に述べられぬまま、強制的に生命を絶ってしまうというところであろう。何故彼らが死のうとする決意を漏らせないのか、それは生まれながらにして下劣を宿命づけられた人間の、高潔への滑稽な拘泥に由来する。そしてその素因は勿論総ての人間に与えられていて、私もまたその滑稽さに身を任せざるを得なかった。
 痛苦が極まったとき、それは遣る瀬無い絶望となる。「絶望と後悔とは、まったく異なる二つのもの」である。成程、スメルジャコフが現代社会において超人Übermenschたりえたのは計り知れぬ絶望故であった。彼がイワンの中で悪魔として君臨しなかったのは純然な人間の本質故である。あの悪魔には人間ほどの下劣さを持ち合わせていなく、彼の誘惑は本幹ではなくあくまで結果に過ぎなかった。彼から感じられるものは神に対立する属性である、つまりそれこそ人間にとっては勝ち得ぬ高潔さだったり純真さだったりするものであった。
 暗幕の果ては夜の冷たい荒野が続き、役目を終えた私はひっそりとその向う側へと歩き続ける。霜で固まった土を踏む度に蹄が痺れ、割れる。それが辛くて私は時折嘔吐寸前の塩辛い唾を吐いた。だがそれは気休めにもならず、寧ろ粘り気のある液体により自分が痛ましい辱めを享けているということの証左になって私をして自縄自縛の局面に至らしめた。情けない鬣は凍みた土埃を纏い汚れて鬖々とし、割れた蹄の先に血色の長槍が盾を突き破るかの如く刺し込める。周りは枯槁としているから水鏡に自己を一眄しえないが、恐らく私は凡そ優美からはかけ離れた存在であるに違いない。それでも一歩ずつ鋭い痛みを相伴しながら私は歩み続けるのだ。
 しかし——嘗て追い求めた光源はそのために遠ざかっていく。それでいて今求めているものは何もないのだ。舞台上でありながら一切観客に注目されないところで私は背中を向けて去っている。割れた馬蹄に染み入る幸福は私を安堵させるどころかそれが杜絶した際の増悪する後悔のことのみを考えさせていた。ひょっとすると私はマゾヒストなのかもしれない! ただ死にもせず、その悍ましき快楽に心を奪われ、自ら屈辱なる原野の彷徨を企てているのだとするならば……
 それでも私は足を止めない。魯鈍な驢馬は畢竟屈辱を愉しむしかないから。

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