私論: 無意味から意味へ 画像から文化へ【#現代4コマ】
それは、たった1枚の画像だった。
ごくありふれた、何の変哲もない、スクロールしたらその瞬間に記憶から消えて二度と思い出されないような、意味も価値も持たないコラ画像だった。
それは、たった1枚の画像だった。
それに僕は狂わされた。虜になった。気付いたらそのことで頭がいっぱいになって、毎日必死に追いかけていた。
それは、たった1枚の画像だった。
でもそれは、1つの文化となった。
現代4コマを知らない人に現代4コマを説明するとき、僕はいつも「4コマ漫画で大喜利をするやつ」みたいな言い方をする。現代4コマを鑑賞する立場ならその表現でおおよそ正しいと思うが、作り手側に立って色々考えた結果生まれた表現としては「現代4コマとは、現代4コマであって現代4コマではない。」だ。
現代4コマについてイメージを膨らませていたら、QuizKnockのWHATのキャッチコピーがしっくりきそうな気がしてきた。
僕は世界を知って、世界は現代4コマを知って、現代4コマは僕を知る。現代4コマを作ることは、自分とは何か、自分なら何を切り取るか、自分ならそれをどう落とし込んで、どう表現するか。自分ならそれに何という題をつけるか。現代4コマは自分を知るキッカケになると僕は思う。
日常には、変なものや面白いものが、まだ気づいてないだけで無数に存在している。それを拾うだけの知見があるかどうか試されている。ピノキオピーのアンテナの歌詞にもあるように、
アンテナを張って自分の身体で色々なものに触れて、感じて、考えることで、自分は何が好きで、何が嫌いで、何を面白いと思っていて、何を面白くないと思っているのか。自分は誰が好きで、誰が嫌いで、誰を面白いと思っていて、誰を面白くないと思っているのかが段々とわかってくるような気がしている。
現代4コマ作家は、日常が4コマに見えてしまう、もしくは4コマのフォーマットに全く別のものを上手く切り貼りして捏造するプロだと思っている。
言ってしまえば、この世に現代4コマなんてものは存在しない。
現代4コマは、いとととさんが作った概念(=とあるモノの見方の提案)に過ぎなくて、そこで決められたルール(コマ4、添え4、#現代4コマというタグをつけること)や、起こったムーブメント(ブルーレットおくだけ、マイケルジャクソンじゃなかった)は内側だけで完結している。
だから面白いんじゃないか。
僕らは全裸になって、堂々と歩いたらいい。
いや、逆なのかもしれない。ルールという服を着ているのではないか。どんなに頑張って現代4コマから離れようとしたところで、#現代4コマ というタグを付けた時点でもうそれは現代4コマという文脈から逃れることは不可能となる。
だから何だ。我々は縛りを歓迎する。
世界を一夜で変えてしまうような発明や、あっと驚くような閃きは、窮屈で閉ざされた箱の中で生まれる。
現代4コマとは、ルールに支配されながらもルールの外側への脱出を試みる不可能な挑戦である。
僕が現代4コマに携わらせてもらって1番嬉しかったことは、無意味が意味になる瞬間を今まさに現在進行形で目撃できていることだ。
現代4コマとは、現代4コマであって現代4コマではない。この意味が少しでも伝わったら嬉しい。
それは、たった1枚の画像だった。
でもそれは、1つの文化となった。
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